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柴田宗意

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柴田 宗意(しばた むねもと、寛永14年(1637年) - 宝永3年8月9日1706年9月15日))は、江戸時代前期の仙台藩重臣。通称、中務または内蔵、のちに但馬。は初め成朝、のち朝成、後年宗意に改めた。

生涯

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仙台藩重臣で奉行(国家老)を務めた柴田朝意の嫡男として誕生する。幼名は千之助または丑王丸。母は朝意の正室、申(おさるの方、秀養院)だが、寛永17年(1640年)、宗意4歳の時に死去。

寛文11年(1671年3月27日、父・朝意が、江戸大老酒井忠清邸において、寛文事件(伊達騒動)に絡む刃傷沙汰に巻き込まれ死亡する。6月、柴田家の家督を相続し、即日奉行(国家老)に就任する。

天和元年(1681年)、寛文事件で改易となった原田家の旧領柴田郡に移封し、知行5,000石を拝領。船岡要害に居城。

元禄5年(1692年)5月、奉行職を辞して隠居。嫡男の宗僚に家督を継がせた。

元禄7年(1694年)、甥の真山庄次郎(異母弟・真山輔義の息子)を自身の養子とする。元禄9年(1696年)、嫡男の宗僚が、子がなく早世したため、この庄次郎改め柴田宗理に柴田家の家督を継がせた。

宝永3年(1706年)8月9日死去。享年70。墓所は柴田家菩提寺の大光寺(柴田町)にある。

エピソード

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父・朝意は、寛文11年1月、寛文事件に絡み、幕府の審問を受けるため江戸へ上る途中、柴田郡槻木宿に宗意を呼び寄せた。宗意は江戸への同伴を願ったが、朝意はこれを拒絶し「後のことはその方に任せる」旨の書状を与えた。これが父子の今生の別れとなり、書状は事実上の遺言状になった[1]

主君伊達綱村は、専制政治がもとで、伊達家一族や家臣団との対立をたびたび引き起こしたが、宗意は綱村の信頼厚く、隠居後も柴田屋敷に綱村が訪れるなど親密な関係だったという。

妻の於勝は、江戸にいた黒崎市郎右衛門定能なる浪人の娘とされ、於勝11歳の時、江戸番頭にあった柴田朝意が国元へ連れ帰ってきたとされる。

系譜

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  • 祖母:阿古姫(長宗我部元親の三女)
  • 父:柴田朝意
  • 母:申(おさるの方、秀養院)
    • 異母妹:りん(奥山常信室)
    • 異母弟:伊藤氏親
    • 異母弟:真山輔義
  • 妻:於勝(黒崎市郎右衛門定能の娘)
    • 嫡男:宗僚
    • 養子:柴田宗理(真山庄次郎)真山輔義の息子。宗僚早世のため、柴田家の家督を相続

脚注

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出典

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  1. ^ 平重道『仙台藩の歴史―2 伊達騒動』p.183-184

参考文献

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  • 柴田町史編さん委員会 編『柴田町史 通史篇Ⅱ』柴田町、1989年
  • 平重道『仙台藩の歴史―2 伊達騒動』宝文堂、1970年
  • 本田勇 編著『史料 仙台伊達氏家臣団事典』丸善、2003年