栖原角兵衛
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栖原 角兵衛(すはら かくべえ)は江戸時代中期から明治にかけて活躍した商人の一族。「角兵衛」は代々の当主によって襲名されている。
本姓は北村であり、源義家の子孫と伝えられる。しかし一般には屋号の「栖原」のほうで知られており、10代目角兵衛のときに正式に栖原姓に改めた[1]。
5代目角兵衛から蝦夷地に進出するようになり[2]、北海道神宮末社・開拓神社の祭神37柱に名を連ねるに至った。
栖原屋歴代当主
[編集]- 初代
- 1601年(慶長6年) - 1673年3月8日(寛文13年1月20日)
- 1615年(元和元年)、紀伊国有田郡吉川村から栖原村に転居し、後に当地の名をとって屋号とする[1]。
- 房総半島での漁業経営を手がけた[1]。
- 2代目
- 1644年(正保元年) - 1706年11月17日(宝永3年10月13日)
- 漁業経営を続ける一方で、元禄年間には江戸の深川で薪炭・木材問屋を始める[1]。
- 3代目
- 1685年(貞享2年) - 1734年1月25日(享保18年12月21日)
- 漁業から撤退し、木材を商売の中心とする。宝暦年間には陸奥国下北の大畑村に支店を設け、桧山産の木材を取り扱うようになる[1]。
- 4代目
- 詳細不詳[2]。
- 5代目(茂勝)
- 1731年(享保16年) - 1793年10月23日(寛政5年9月19日)
- 1765年(明和2年)、松前藩に渡航し小松前町に支店を開設。漁業経営を再開するとともに、蝦夷と本州の交易を手がけるようになる[2]。
- 6代目(茂則)
- 1753年(宝暦3年) - 1817年10月16日(文化14年9月6日)
- 場所請負人となる。1786年(天明6年)にテシホ・テウレ・ヤンゲシリを、翌1787年(天明7年)にはトママイ・ルルモッペを請け負った[2]。
- 7代目(信義)
- 1780年(安永9年) - 1851年8月21日(嘉永4年7月25日)
- 1806年(文化3年)、石狩13場所のうち5場所を請け負うが、1815年(文化12年)に返上する。代わって同年には根室場所を請け負っているが、これも2年後に返上した[3]。
- 一方、1809年(文化6年)に伊達林右衛門と共同で請け負った北蝦夷地(樺太)は、その後も長く1875年(明治8年)まで経営を続けることになる[3]。
- 1919年(大正8年)、従五位を追贈された[4]。
- 8代目(茂信)
- 1808年(文化5年) - 1854年11月12日(嘉永7年9月22日)
- 1841年(天保12年)、伊達林右衛門とともに択捉島の漁場経営を請け負う[5]。
- 9代目(茂寿)
- 1812年(文化9年) - 1857年2月7日(安政4年1月13日)
- 1855年(安政2年)、松前藩の沖ノ口収納取扱方に就任する[5]。
- 10代目(寧幹)
- 1836年(天保7年) - 1918年(大正7年)
- 1860年(万延元年)、天塩・天売・焼尻・苫前・留萌が庄内藩領となって以降も、引き続き経営を任せられる[5]。
- 1881年(明治14年)、北村から栖原に改姓する[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 伊藤孝博『北海道「海」の人国記』無明舎出版、2008年7月30日。ISBN 978-4-89544-478-1。
- 田島佳也、「近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, 日本福祉大学知多半島総合研究所