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栗島狭衣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くりしま さごろも
栗島 狭衣
本名 栗島 山之助 くりしま さんのすけ
出生名
川村 山之助 かわむら さんのすけ
生年月日 (1876-04-05) 1876年4月5日
没年月日 (1945-11-06) 1945年11月6日(69歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市日本橋区蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町
職業 俳優新聞記者劇作家脚本家
著名な家族 綾瀬川山左衛門
栗島すみ子 長女
主な作品
書籍
『詩人業平』
『日本人名辞典』
『相撲通』
『名勝負相撲小説集』
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栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 1945年11月6日[1])は、日本の俳優新聞記者劇作家脚本家である。本名は栗島 山之助(くりしま さんのすけ)、出生名は川村 山之助(かわむら さんのすけ)である[1]

人物・来歴

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1876年(明治9年)4月5日東京府東京市日本橋区蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に元力士の綾瀬川山左衛門(本名 川村藤次郎)の長男「川村山之助」として生まれる[1]。当時の綾瀬川は割烹旅館を営んでいたが、出身地の大阪に帰り、長男の誕生から1年に満たない1877年(明治10年)3月8日に死去した。

1898年(明治31年)、旧制・國學院(現在の國學院大學)国文科を卒業、東京朝日新聞社に入社する[1]。相撲記者・演劇記者を務め、1899年(明治31年)12月、23歳のときに『文壇の三偉人』を上梓している[2]。1899年(明治32年)、与謝野鉄幹が創設した東京新詩社に参加する[3]

1905年(明治38年)5月には、文士劇の劇団・若葉会を結成した[1]。メンバーは、東京朝日新聞からは栗島のほかに右田寅彦二六新聞岡鬼太郎岡村柿紅時事新報伊坂梅雪報知新聞鹿島桜巷演芸通信小出緑水東京毎日新聞杉贋阿弥人民新聞松本当四郎で、東京日日新聞からは岡本綺堂が劇作家として参加した。同月11日に歌舞伎座で第1回、翌年1906年(明治39年)5月に第2回公演を行った。若葉会は同年、東京毎日新聞社内の組織、東京毎日新聞演劇会に発展し、栗島は東京朝日新聞を同年に退社[1]、1908年(明治41年)12月までに6回開演して解散した。

東京朝日新聞退社後は、新詩社の社友となり、退社以降も1919年(大正8年)まで同紙に寄稿をつづけた[1]

1909年(明治42年)には、養女にした当時7歳の栗島すみ子とともに、M・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演している[4]。1911年(明治44年)には吉沢商店、1916年(大正5年)には天活小林商会等で映画に出演し、井上正夫が監督・主演した『生さぬ仲』、おなじく『毒草』等の人気作に出演している。1917年(大正6年)以降は、映画脚本も執筆するようになった。

東京・有楽座お伽芝居帝国劇場女優劇近代劇協会新派の演劇にも出演した[1]。「栗島狭衣一座」を率い、俳優・劇作家として活動した[1]

1945年(昭和20年)11月6日、死去した[1]。満69歳没。

尾崎紅葉が翻訳し、栗島が脚色した『喜劇三箇條』を収録した『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編 50』等を除いて、ほとんどの書籍が絶版であり、青空文庫にも収録されておらず、作家の読み仮名も誤っている[5]国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、6冊の著書がデジタル画像で公開されており、閲覧・ダウンロードが可能である[6]

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館蔵書[7]

おもなフィルモグラフィ

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特筆以外はすべて出演。

M・パテー商会

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1909年

吉沢商店

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1911年

天活東京撮影所

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1916年

小林商会

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1916年
1917年

作家時代

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1918年

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「栗島狭衣」の項。
  2. ^ 文壇の三偉人国立国会図書館、2009年12月2日閲覧。
  3. ^ 伊藤整『日本文壇史5』講談社文芸文庫、1995年、186p頁。 
  4. ^ 新桃太郎日本映画データベース、2009年12月2日閲覧。
  5. ^ 栗島狭衣青空文庫、2009年12月2日閲覧。
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション、検索結果、国立国会図書館、2009年12月2日閲覧。
  7. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2009年12月2日閲覧。

外部リンク

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