栗本瑞見
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栗本 瑞見(くりもと ずいけん)は、江戸幕府の侍医を務めた栗本家の名跡。栗本家は近江国栗本郡(のち栗太郡)に暮らしていた一族で、江戸時代に医業を始め、紀州徳川家の医師となった[1]。
- 初代栗本瑞見(栗本直方) - 主君の徳川吉宗が将軍となったため江戸城に上がり、享保元年(1716年)に御家人に列して幕府の侍医となり、瑞見を名乗る。享保14年に没するまで吉宗の奥医師を務めた。階位は法眼(最高位法印の次位)[1]。
- 2代目栗本瑞見(栗本昌綱) - 直方の子で、享保13年に奥医師見習いとなり、父親没後に家督を継ぐ。吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、安永3年(1774年)に長男の昌友に家督を譲り、翌年没した[1]。
- 3代目栗本瑞見(栗本昌友) - 昌綱の子で、安永3年に奥医師見習いとなり、翌年家督を継いで奥医師に就任し同年法眼となるも、病により寛政元年(1789年)職を辞す。男子がなかったため、同じく幕府の医員だった田村藍水の子・昌臧(のち丹洲)を婿養子に迎えた[1]。
- 4代目栗本瑞見(栗本丹洲) - 昌友の婿養子。天明5年(1785年)奥医師見習となり、養父が辞職した寛政元年に奥医師となり、家治に仕えた。階位は法印。
- ?代目栗本瑞見(栗本鋤雲) - 幕府の医官喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男。栗本氏の養子となり、嘉永3年(1850年)に内班侍医となったが、安政5年(1858年)に蝦夷移住を命ぜられ、文久2年(1862年)に幕臣となり、外国奉行として幕末の外交交渉にあたる。明治維新後は新聞記者として活躍した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 福島好和「栗本丹洲と魚譜(一) : 丹洲の生涯とその研究」『人文論究』第28巻第3号、西宮 : 関西学院大学人文学会、1978年12月、1-23頁、CRID 1050001202536648192、hdl:10236/5216、ISSN 02866773。
- ^ 栗本鋤雲コトバンク