栗橋保正
栗橋 保正(くりはし やすまさ、1890年(明治23年)10月7日[1][2] - 1967年(昭和42年)4月30日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。
経歴
[編集]茨城県出身[1][2][3]。栗橋保孝の二男として生まれる[1]。1911年(明治44年)5月、陸軍経理学校(5期[注 1])を卒業[4]。同年12月、三等主計に任官し歩兵第50連隊付となる[1]。1913年(大正2年)12月、陸軍被服本廠員に就任し、1915年(大正4年)6月、二等主計に昇進[1]。1916年(大正5年)6月、経理学校学生となり、1917年(大正6年)5月から1918年(大正7年)5月まで、同校の員外学生となる[1]。1920年(大正9年)8月、一等主計に進み、近衛師団経理部員、陸軍省経理局課員を歴任[1]。1926年(大正15年)3月、三等主計正に進級し近衛師団経理部員兼経理局課員に就任[1]。
1927年(昭和2年)8月、参謀本部付となる[1]。1930年(昭和5年)8月、二等主計正に昇進し被服本廠付兼経理局・参謀本部付に就任。経理局課員、近衛師団経理部員を経て、1935年(昭和10年)3月、一等主計正に進み経理局建築課長に就任した[1][3]。経理局主計課長、臨時東京経理部長を務め[2]、1938年(昭和13年)7月、主計少将に進級した[1][3]。
1939年(昭和14年)3月、関東軍倉庫長に発令され満州に赴任[1][2][3]。同年8月、第21軍経理部長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1940年(昭和15年)2月、南支那方面軍経理部長に転じた[1][2][3]。同年7月、朝鮮軍経理部長となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍省経理局長兼野戦経理長官に就任[1][2][3]。同年8月、主計中将に昇進[1][2][3]。1945年(昭和20年)7月、関東軍経理部長に転じて終戦を迎えた[1][2][3]。1946年(昭和21年)7月に復員した[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、60頁では23期としているが、これは『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』520頁に記載されている陸士卒業該当期数と思われ経理学校の期数ではない。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。