栗生顕友
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時代 | 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 左衛門[1] |
主君 | 新田義貞 |
氏族 | 栗生氏 |
栗生 顕友(くりゅう あきとも)は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。
経歴・人物
[編集]栗生氏は清和源氏の一族河内源氏・足利氏庶流の源姓畠山氏の流れを汲む。
上野出身。義貞の側近として仕えた。建武の新政後の建武3年(1336年)、恒良親王や尊良親王を奉じ北国へ向かった義貞に従う。『太平記』によると、越前金ヶ崎城を包囲する北朝方の軍勢を、顕友の進言した策を以て欺き、義貞の金ヶ崎城入城に成功したとされる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『埋み火はまた燃える―新田一族銘々伝』(新田純弘著 さきたま出版会 2000年)
- 『太平記』(巻十七 十六騎勢入金崎事)