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桑山重晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
桑山重晴
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 大永4年(1524年[2]
死没 慶長11年10月1日1606年11月1日
改名 桑山重勝→重晴
別名 彦次郎、修理亮、修理進(通称
重勝(初名)、宗栄(法名)
桑山修理亮、桑山治部卿法印
戒名 果法院殿春谷宗栄大居士
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺清泉寺
和歌山県和歌山市鷹匠町の珊瑚寺
官位 従五位下修理大夫
幕府 江戸幕府
主君 織田信長丹羽長秀/豊臣秀吉秀長秀保→秀吉(秀頼)→徳川家康秀忠
和泉谷川藩
氏族 桑山氏(藤原氏支流)
父母 桑山以則または桑山定久
斎藤吉兵衛の娘[要出典]
一重元晴貞晴
特記
事項
惣領は孫(長男・一重の子)の 一晴が継ぎ、隠居領の谷川藩は別の孫(次男・元晴の子)の清晴が継ぐ。
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桑山 重晴(くわやま しげはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名。別名に重勝大和国新庄藩桑山家の祖、和泉国谷川藩の初代藩主。官位従五位下修理大夫千利休から茶道を学んだ茶人でもあった[1]

生涯

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桑山氏は、鎌倉幕府の有力御家人結城朝光の子孫で、尾張国海東郡桑山ノ庄を代々領したことからそれを姓と称した。

大永4年(1524年)、尾張国で生まれ[3]、桑山以則(修理大夫)または桑山定久の子という[4]

初名を重勝といった[4]が、かなり長く重勝の名を使っており、天正10年(1582年)6月付の『妙法寺文書』に杉若無心との連署で、「桑山修理亮・重勝」とする花押が残っている[5]

初めは織田信長の家臣・丹羽長秀(惟住長秀)の与力だったらしい[4]が、天正3年(1575年)の『竹生島文書』に羽柴秀吉の奉行衆としてト真斎信貞と重勝の連署が残っている[6]長浜城時代の秀吉に仕えたとする系図もあるが[7]近江国の羽柴家と丹羽家の所領は隣接しており、両属のようである。

天正10年(1582年)頃、重晴(重勝)の知行は1万石であり、秀吉の弟・羽柴秀長の配下に転じて但馬国竹田城主となった[8][7]。この竹田城で長男を亡くしている。

天正11年(1583年)2月、賤ヶ岳の戦いでは、重晴は山頂の賤ヶ岳砦を守った。佐久間盛政の攻撃に際して従属するような態度で在陣を続けて[4]、夜が明けると砦を放棄して山を降りてしまうが、結果的には秀吉の来援までの時間を稼いだことになった。重晴は丹羽長秀隊と合流して反撃に参加。4月27日、長秀はこれらを賞して、家臣の丹羽秀重長束正家と共に、重晴にも加増を与えている[9]

天正13年(1585年)、紀州征伐に参加し、重晴は自ら首級を上げる手柄があったので感状を受けた[7]。秀長の大和国への転封に伴い、紀州和歌山城主に転じて2万石を加増された[10]

文禄3年(1594年)、伏見城の工事を分担[10]

文禄4年(1595年)4月、秀長の養嗣子の豊臣秀保の死によって大和豊臣家が断絶すると、秀吉の直臣となった[10]。同年7月8日、豊臣秀次が謀反の疑いを釈明するために伏見城を訪れた際、伏見城大手門の守備を任された[7]。その功により、和泉国日根郡谷川に1万石を加増されて、計4万石となった[7][11]。この頃、剃髪して「治部卿法印」と称するようになった[11]。 果法院と号し、法名は宗栄[7]

慶長元年(1596年)5月11日に修理大夫の官位を孫の一晴に譲り[11]、退隠する[10]。秀吉の御伽衆となる[10]

慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金15枚を受領[10]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の役では、徳川家康山岡道阿弥を派遣して7月29日付の書状を渡して[7]、西軍の大和郡山城増田長盛の所領を与えると加増を約束[12][11]したので、重晴と一晴は東軍に属して、和歌山城を守った。

同年、重晴は隠居して一晴に和歌山2万石を継がしめ、次男の元晴に1万石を分知して、谷川1万石の領地のみを保持。一晴は4,000石を、元晴は2,000石を養老料として戻したので、和泉谷川1万6,000石(谷川藩)を領有することになった[11]

戦後、徳川秀忠に家法の薬と帷子を献じたので返事の礼状をもらった[11]

慶長11年(1606年)10月1日に死去した。享年83[2]。幕府は谷川の養老料のうち元晴に6,000石を分与し、孫の清晴に1万石を相続させて2代谷川藩主とした。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 阿部 1990, p. 313
  2. ^ a b 生年には大永7年(1527年)説もあり、その場合は享年80[1]
  3. ^ 堀田 1922, p. 166
  4. ^ a b c d 高柳 & 松平 1981, p. 96
  5. ^ 東京大学史料編纂所花押データーベース。
  6. ^ 『東浅井郡志巻4』滋賀県東浅井郡教育会、1927年、239-240頁。 
  7. ^ a b c d e f g 斎木一馬、林亮勝、橋本政宣 編『寛永諸家系図伝 11』続群書類従完成会、1987年、40-41頁。ISBN 9784797102468 
  8. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 96-97
  9. ^ 大日本史料11編4冊412頁
  10. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 97
  11. ^ a b c d e f 堀田 1922, p. 167
  12. ^ 史料綜覧11編913冊239頁

参考文献

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