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桜庭信正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
桜庭 信正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 1570年
死没 慶長9年(1614年
別名 左衛門尉
戒名 陽光院殿信正良勇大居士
主君 津軽氏
氏族 宇多源氏佐々木氏桜庭氏
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桜庭 信正(さくらば のぶまさ、1570年 - (1614年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

出自

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南部家譜代の家臣の家柄である。遠祖桜庭良綱は南部光行に従い、甲斐国より糠部に下向した。安芸氏福士氏三上氏と共に、「南部四天王」の並び称された。盛岡藩南部家では代々重臣として続いた。[1] 1504年頃、津軽に12人の館主が派遣され、その中に三上惣右衛門らと共に先祖がおり、東目屋桜庭館[2] に土着し、太郎左衛門を襲名した。

略歴

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1571年、大浦為信に仕えて、石川城攻めで旗本衆、さらに大光寺城攻め、大垣城攻めに参陣した。長男左衛門次郎正次(櫻庭院殿忠山道義大居士)は大垣城攻めで討ち死にした。桜庭村の喜山庵に、長男供養のため、寺領六石を寄進し、次男信光の代に信正の戒名から桜庭山陽光院と名づけられた。後に広船城沖館城を拝領した。跡を継いだ信光は別浦太郎左衛門(別浦とは広船、沖館のこと)とも称した。

脚注

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  1. ^ 近世こもんじょ館 記録解読館 桜庭 ”. 近世こもんじょ館. 2018年6月25日閲覧。
  2. ^ 東目屋村桜庭、現弘前市桜庭

参考文献

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