桶平城
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桶平城 (宮崎県) | |
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別名 | 桶平塁、田原陣[1] |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 建造されず |
築城主 | 伊東氏 |
築城年 | 永禄11年(1568年) |
主な城主 | 佐土原遠江守 |
廃城年 | 永禄12年(1569年) |
遺構 | 曲輪(一部) |
指定文化財 | 史跡等未指定[2] |
位置 | 北緯32度01分14.92秒 東経130度52分04.81秒 / 北緯32.0208111度 東経130.8680028度 |
地図 |
桶平城(おけひらじょう/おけがひらじょう)、または田原陣(たばるじん)・桶平塁(おけひらるい)は、宮崎県えびの市大字原田字田原陣の丘陵「田原山」にあった砦(日本の城[3])。
概要
[編集]標高295メートル(比高50メートルほど)の丘陵部にあり、頂上には階段状のテラスのようなものが存在していた。また北端に「馬乗り場」と称されるおよそ100メートルの長さの土塁もあったとされるが、宮崎自動車道建設に伴い土砂が削り取られており、北側の一部を除いて遺構はほとんど残されていない[1]。
歴史
[編集]永禄11年(1568年)、日向国伊東氏の伊東祐安が、相良氏と連携して島津義弘の飯野城を攻めようと田原山に陣を布いたが、義弘に察知され睨み合いとなる。祐安はやむなく田原山に城を築いた。それが桶平城である。
祐安は桶平城に佐土原遠江守を置いて守らせていたが、同年11月に島津家臣の遠矢良賢と黒木実利が城兵を挑発、出陣した城兵は伏兵により敗北を喫している。翌年、伊東氏の家督を継いでいた伊東義益が急死したこともあり、伊東勢は桶平城を焼いて撤退した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『えびの市の城館跡』:宮崎県えびの市教育委員会
- 『えびの市史 上巻』:えびの市郷土史編さん委員会
- 『日向記』
- 宮崎県教育庁文化課 1998「地名表」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書1(地名表・分布地図編)』宮崎県教育委員会 p.21
- 宮崎県教育庁文化課 1999「田原陣」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書2(詳説編)』宮崎県教育委員会 p.134