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梵寿綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  • 梵 寿綱(ぼん じゅこう:欧文 Von Jour Caux、本名:田中 俊郎(たなか としろう)1934年1月27日ー)は、日本の建築家造形作家思想家神秘家。出生地は東京下町浅草寺東側[1]馬道通りで、生来の気風は典型的な江戸っ子
  • 1974年6月より梵 寿綱(作務名)を名乗り、20名程の協働者(画家彫刻家工芸家職人シンパ)等から成る「梵寿綱と仲間たち(Von Jour Caux and his Troupe)」を組織。
  • Troupeが旅役者達を意味するところから、依頼者と状況に合わせて戯作で舞台を戯作する一座に擬えて即興劇的建築運動を開始。
  • 竣工直後に舞台成果として建築を一般に公開するArt Complex(技芸統合)運動と、協働者各々の仕事を紹介する展覧会や講演会を主催するRaga Chakrus(生命饗応)活動を連携させて建築美学の復権を企図して実践。
  • 一座の調整機関として阿釈藦那(Aatmanアートマン Studio)を組織。 通常の社会的業務である「事務」を日常的営為を自己研鑽の修行と心得て「[2]作務」へと、 事務所名の梵一級建築士事務所(自営)を梵設計作務室(Brahmanブラフマン Architect)と改名。
  • 「日本のガウディ異名は、The Japan Times international edition  Aug.24-30,1992:” Builder of Fantasy” の巻頭4頁特集記事中の梵 寿綱の建築的表現をガウディ建築に准えた論考、 ”Gaudi’s style, Tokyo dreams: architecture for surreal city” に由来する。

作務名:梵 寿綱の由来[編集]

経歴と人柄 [編集]

  • 梵我一如において、無相の自己が有るところ有時現成(純粋な自己の本性が現れる)。有時(うじ)には経歴(経験が連なり歴る)の性質あり、経歴(きょうりゃく)とはたんなる去来ではなく、瞬間瞬間に発現し同時に瞬間瞬間に消滅していく時間である。(有時と経歴 正法眼蔵の「有時」の巻第7文段)  

1:田中俊郎第一期 誕生から大東亜戦争開戦・戦中・戦後・大学卒業まで[編集]

  • 田中 俊郎の実父・多田 重胤(ただ しげたね)は浅草の大衆演劇の脚本家で、実母・田中 そめは前進座(ぜんしんざ)創設時に入団した女優で後に独立してフランスの劇作家シモン・ギャンチヨンの「戯曲マヤ(娼婦マヤ・長谷川善雄訳東京金星堂1933年)」の帝国劇場での初演舞台(マヤ役・細川ちか子)で、14歳の少女フィフィンヌ役を務めた新劇女優の先駆けであった。後にPCL(東宝映画社の前身)の映画女優となったが俊郎の成長を見ずに夭折。
  • 実父母は未婚であったために、田中 俊郎は戸籍上は[4]私生児と表記されたが、実母・そめの姉の浅草芸者であった田中 豊惠(たなか とよえ)が養子として入籍。養父・稲本 綱(いなもと つな)は株式仲買人で、養母・田中 豊惠の生涯のパートナーとして田中 俊郎を実子以上の愛情で育てたが、後に事情により結婚した正妻との間では子供に恵まれぬまま正妻は先立った。一家は牛込神楽坂に転居したが幼少時に虚弱時だった俊郎は、小学校一年から沼津の養護学園で半年間養生。祖母に伴われて随時湯治場で養生。
  • 1940年(昭和15年)牛込区津久戸小学年低学年に復学。ヒトラーユーゲントの一行30名が来日した際には、同校体育館でハイルヒトラーと斉唱して歓迎。白馬に跨る天皇陛下の肖像写真に毎朝拝礼。遊び場の靖国神社の大村益次郎の銅像を仰ぎ見てゲートルを巻き銃剣術の稽古に励み、大東亜共栄圏を夢みる軍国少年に成長。
  • 1944年(昭和19年)小学校五年。親元を離れて千葉県牛久に単身疎開。一時帰郷した神楽坂の家で東京大空襲焼夷弾直撃を経験。そのときに天皇陛下の御真影救出に火中に飛び込むところを養母が必死に止め一命を拾う。
  • 1945年(昭和20年)小学校六年。養母と祖母の三人で栃木県小山市に疎開。畑仕事奉仕中に戦闘機の機銃掃射に追い回されたが一命を拾う。大東亜戦争敗戦(1945年8月15日)。象徴天皇となった国父天皇を歓喜して崇める敗戦後の風潮に不条理を覚える。
  • 1946年(昭和21年)県立栃木中学校入学。当時の小山市・栃木市間(両毛線約11km)は客車がなく、一年目は無蓋貨車、二年目は有蓋貨車で通学。教育現場は混乱していて学ぶべきものがなく、方途を探って貸本屋の本を毎日一冊ずつ乱読して、読書から知識を吸収する習慣を自得。
  • 1948年(昭和23年)養父が用意した東京都新宿区早稲田南町の家に転居し、杉並区の日本大学第二中学校3年に転入。学芸会で久米正雄の戯曲「地蔵経由来」を演出。
  • 1949年(昭和24年)早稲田大学高等学院入学。外国文学や戯曲、哲学書や宗教書、世界の神話や民話などを多読し、映画・演芸・演劇鑑賞に没頭。 文学や哲学に傾倒するなかで、自分が「反抗的人間 (L'Homme révolté アルベール・カミュ」であり、「アウトサイダー(Outsider コリン・ウィルソン)」であると自覚。
  • 1952年(昭和27年)早稲田大学理工学部建築科入学。近代建築の授業に馴染まななかったが、建築美学今井兼次考現学今和次郎・都市計画の石川栄耀吉阪隆正・建築構造の内藤多仲教授等の人物像に私淑。
  • 1956年(昭和31年)教授の指導を受けずに自力で、「空間が機能を生起する」とする美学的卒業論文「公共的生活空間」を提出し高評価を得て同大学を卒業。

2:田中俊郎第二期 大学卒業後米国留学を終えて帰国するまで[編集]

  • 1956年(昭和31年)建設会社中野組(現ナカノフドー建設)入社・現場監督員として、旧海軍兵学校を経て敗戦後東京工業大学建築科を卒業した米山 卓所長(ナカノフドーコーポレーション社長)の特訓を受け三建設現場と業務を体験。
  • 1959年(昭和34年)同社を退社。一級建築士免許証取得。建築確認申請代理専門事務所に入社。1960年(昭和35年)同事務所退社。
  • 1961年(昭和36年)梵一級建築事務所(自営)開設。木造処女作(片切家寿舞)・前野家寿舞。バックミンスター・フラーの講演会で、フラードームチャールズ・リンドバーグ大西洋横断飛行に触発されて誕生したことに衝撃をうける。
  • 1962年(昭和37年)アメリカ留学。志願校イリノイ工科大学からシカゴ美術館附属美術大学に転校。[[House and Garden Design Center(Interior Designer) とRemingtonRand Library Bureau(Space Planer)に6カ月ずつ勤務してフルタイムスチューデントとして勉学。
  • 1963年(昭和38年)東京三宅坂・国立劇場設計競技佳作入選 、全米最大規模の Chicago Artist Competition ・Chicago Museum Gallery Show・Momentum 2 of University of Chicago等に入選・入賞。美術大学教授自宅インディアナの家を設計。
  • 1964年(昭和39年)ニューヨーク世界博覧会を視察して、米国留学を終え帰国。

3:田中俊郎第三期 帰国後から梵寿綱を名乗り梵設計作務室を開設するまで[編集]

  • 1964年(昭和39年)梵一級建築事務所(自営)再開。アルミのリゾートハウス競技設計二等受賞、木造プレファブ住宅の競技設計三等受賞。京都国際会議場建築設計競技、浪速芸術大学(現・大阪芸術大学)」設計競技。
  • 1965年(昭和40年)~1967年(昭和42年)国士館大学建築科非常勤講師。~1966年(昭和41年)北野建設の設計部次長。
  • 1966年(昭和41年)~1968年(昭和43年)日産建設技術研究室開設(主任研究員)・建築設計合理化のための基礎資料作成・タシュケント地震に耐えたフランスカミュ社(PCパネル高層プレファブ住宅)試作を経て両社の合弁会社設立。1968年(昭和43年)コンクリート造処女作(塚田美瑠)。
  • 1968~1971年(昭和43~46年)梵一級建築事務所(共同)に再編。大蔵屋不動産分譲マンション・シャンボールシリーズ開発。同社軽井沢プリンスランド開発企画。同社本社ビル。「新建築」誌・ルポルタージュ日本建築の断面最終回16(村松貞次郎)「第三の建築家」「建築」誌梵一級建築士事務所特集その1(50頁)・その2(50頁)。空海の「三教指帰」に準えた建築家としてのマニフェスト「三祈指帰」を発表。
  • 1968年(昭和43年)安田火災海上保険と新日鉄の出資を得て都市開発中央研究所設立(主任研究員)。東京大学工学部高山英華研究室・大村虔一(後に東北大学名誉教授・日本都市学会会長)と共同。
  • 1969年(昭和44年)安田火災海上保険新宿西口新社屋(現損保ジャパン本社ビル)建設に関するアメリカ超高層視察団を企画引率。
  • 1971年(昭和46年)梵設計作務室(自営)名称変更再編。中野組不動産部分譲マンション・カーサシリーズ企画開発。
  • 1972年(昭和47年)中野組の依頼により住宅公団公募のHPC工法(H型鉄鋼とプレファブパネルの複合高層構造)を開発、採用されたが公団の都合で実施中止。
  • 1973年(昭和48年)開発したHPC工法による高層低価格ビバカーサ相生(240室・14階建)全室1日で完売・ビバカーサ亀戸(250室・12階建)全室2時間で完売しワンルームマンション建設ブームを起爆。

4:作務名 梵寿綱 以降[編集]

  • 1974年(昭和49年)事務所名「梵」と養父の戒名「壽綱」を綴って作務名・梵 寿綱。
  • 1977年(昭和52年)芸術生活誌巻頭特集「梵寿綱の幻想建築(50頁)」
  • 1978年(昭和53年)NHK教育テレビ「美をさぐる(現代のインテリア)梵寿綱の世界・彼岸への誘い(45分)」。TBSラジオ「モーニングエッセイ(7週連続)」
  • 1979年(昭和54年)ラーガチャクラス1展覧会と講演会「賢者の石(壁装館ホール東京)」
  • 1981年(昭和56年)「住宅建築」誌・「寿舞(梵寿綱の住宅)50頁」。
  • 1985年(昭和60年)「住宅建築」誌・「無量寿舞(向台特別養護老人ホーム)50頁」
  • 1986年(昭和61年)「無量壽舞/梵壽綱の世界Archifile(Lazer disk)建設情報センター」
  • 1992年(平成4年)a Builder of Fantasy(The Japan Times Weekly)
  • 1993年(平成5年Lura and Lore of Von Jpur Caux(Tokyo Today Monthly)
  • 2001年(平13年)The  Aayojan School of Architecture in Jaipur, Indiaの創設者Mr. Sanjeev (現イリノイ大学都市計画学科教授)の招聘で渡印し、同校にて「ウパニシャッドと建築(Vedic Principal and Architecture)」・「曼荼羅と建築(Mandala and Architecture)」と題する二講演。 Anshuman Singhラジャフスタン州知事・Joglekarジョグルカー氏(インド都市開発公団主査・都市建築評論家・インド建築の5000年展1988の主催者)と面談。 Kapoorchand Kulishカプールチャンド・クーリッシュ氏(ウパニシャッド研究の世界権威で京都大学・中村元 (哲学者)東京大学名誉教授のインド哲学の盟友)の知遇を得て、氏の研究成果であるウパニシャッドのマニスクリプト新版を拝見。ブラフマーを祀る整聖プシュカルや、ムガル帝国第三代皇帝アクバルが建造後十余年で廃都とした王都ファテープル・シークリー、帝国第五代シャー・ジャハーン皇帝が建造したタージ・マハルに、有能な学者で、ヒンドゥー教イスラム教スーフィーの本質は同じだとしてヒンドゥー教の聖典ヴェーダの一部ウパニシャッドをペルシア語に翻訳した皇太子ダーラー・シコーシャー・ジャハーンの長男)に想いを馳せた。

5:知遇歴 私淑・先達・同志・忘れ得ぬ人々[編集]

  • 早稲田大学建築学部時代に今井兼次今和次郎石川栄耀吉阪隆正内藤多仲教授達の人物像に私淑。
  • 建築家の先達として今井兼次村野藤吾白井晟一吉阪隆正師等を志向。
  • 海軍兵学校 (日本)の米山 卓(当時中野組工事所長・後に会長)・市川英一(当時東京都建築家主事・後に市川構造設計所長)と特別攻撃隊の佐間田敏夫(当時経営指導・後に画家)の日本帝国に命を捧げる覚悟を持ち、戦後は復興に意欲を燃やす三人の同志から情熱を伝承。
  • 1988-(昭和63年-)楢崎 皐月(ならさき さつき)による電気水農耕と畜産、相似象、カタカナム文書等を自習し、アルカリイオン水や遠赤外線の身体的効能の知見を得て体得。
  • 1992~2008年(平成4~20年)朝比奈大宗師の知遇を得て、脈診経絡経穴気功等の中国医学の基本に開眼。朝比奈師は東京大学法学部修士で法学者を志したが、登山事故で同行の友人亡くし自身も脊椎損傷で完治の見込みがないところ、無名の治療師の手当で奇跡的に回復し治療師となる。中医の診断手当を通じて「黄帝内経(中国最古の医学書)」の手引きを受け、「家庭に於ける実際的看護の秘訣(日本民間伝承療法蒐集書)」を自習。
  • 1993ー2008年(平成4-20年)朝比奈師の紹介で西野流呼吸法に入門。西野皓三師範の知遇を得て、呼吸法(練気)と対気法(推手 (太極拳))・勁力(発勁・練勁・聴勁)を体得。[[玉井英二住友銀行副頭取、順天堂大学酒井シヅ名誉教授(医学史家)、東京大学医学部准教授(脊椎動物重力対応進化論・三木成夫自然科学者思想家自然哲学者解剖学者)の後継者、貫和敏博東北大学名誉教授(呼吸器系)等の知遇を得る。歯科医院・精神病クリニック内装を手掛け「空間の癒し効果」の構築法を実践。
  • 1994年(平成5年)第4回国際アジア伝統医学大会(酒井シズ事務局長)に参集し「近代以前の伝統医学の文献的 研究」・「漢方薬の科学的研究」・「アジア伝統医学システムの存続と復興」・「自然と医学」・「社会科学とアジア伝統医学」・「針 灸と近代文明」・「精神医学と アジア伝統医学」・「生命呼吸ー 現代に生きる伝統科学」・「医療人類学とアジア伝統医学l養生文化と環 境医学」・「伝統医学の脈診を科学するl 東西の医学の見地から」・「ター ミナルヶァとアジア伝統医学」・「ライフ スタィルとアジア伝統医学」等のワークショップを聴講
  • 1992~2002年(平成4~14年)佐々木健人師(有機農業指導者)の知遇を得て、佐々木農法の実践者で「十種神宝(とくさのかんだから)御法(伯家神道)」を奉じる村木通良(しらかば農園主・建設会社村区組社長・秋田県建設業界副会長)の依頼で観光工場を企画。自然農法と伯家神道の知見習得。
  • 2007~2018年(平成19~30年)築地市場移転に関する「築地を考える会」に関与していた建築家黒川紀章他界に伴い同会相談役を後継。築地市場跡地を羽田空港と成田空港をターミナル空港施設として統合開発企画提案。
  • 2010~(平成22年-)西野流呼吸法の対気の実践的応用として社交ダンスを50年振りに再開するがコロナで中断。

梵寿綱の実践[編集]

1:実践経歴[編集]

  • 1974年(昭和49年)田中俊郎から梵寿綱に改名。 
  • 「梵寿綱と仲間たち(旅役者一座)」を結成。 
  • アートコンプレックス運動とラーガチャクラスの活動の実践を始動。

2:実践主題[編集]

  • 第一主題は「寿舞」で、住まいを祝福された家族の生命樹と成長儀礼の舞台と擬える。
  • 第二主題は「樹下美人図考」で、豊穣と再生の象徴の図像に則り彫塑の表現を再興する。
  • 第三の主題は「美留」で、技芸を通じて人々の心に響き翡翠の美が留まる建築を志す。
  • 三主題を統合して、文化的装置「観無量壽舞(美学的建築)」の具現を究極の目標とする。

3:実践構造[編集]

  • 梵寿綱が主催する梵設計作務室(Brahman Architect)が台本を製作し、協働者達の作業及び資金は阿釈藦那(Aatman Studio)が調達調整して、アートコンプレックス運動(Art Complex Movement)とラーガチャクラス活動(Raga Chakras Activity)を両輪として連携させ、個人的なコンセプトや合理的な構築表現を超えた象徴的図像や幻想的イメージの表現を通じて、技芸と工芸が絡み合う迷宮の中で、宇宙的生命のイメージを象徴する複合的構築物の構築する。

実践成果[編集]

1:アートコンプレックス[編集]

  • 1975年(昭和50年)01 巡礼の記憶/阿維智(アイチ山荘)
  • 1977年(昭和52年)02 鎮守の森/秘羅橲(第一平喜美瑠)
  • 1979年(昭和54年)03 賢者の石/斐醴祈(第二平喜美瑠)
  • 1984年(昭和59年)04 幻想の響き/和世陀(ドラード早稲田)
  • 1985年(昭和60年)05 生命の潮流/無量壽舞(向台特別養護老人ホーム)
  • 1988年(昭和63年)06 Mundi Animus/精霊の世界(篠塚美瑠 )
  • 1989年(平成01年)07 La Porta Izumi /地霊の起源(須藤美瑠)
  • 1990年(平成02年)08 Royal Vessel /陽炎の讃歌(清水美瑠)
  • 1992年(平成04年)09 有時現成/彼岸への誘い(性源寺庫裏客殿)
  • 1993年(平成05年)10 舞都和阿/心の響き(住宅都市整備公団)

2:ラーガチャクラス[編集]

  • 1979年(昭和54年)01講演会 賢者の石(壁装館ホール)
  • 1981年(昭和56年)02講演会 壽舞について(全日空ホテル札幌)
  • 1985年(昭和60年)03講演会 建築と工芸(国際文化センター 東京)
  • 1986年(昭和61年)04展覧会 技芸の響き(NSビルアトリウム東京)
  • 1993年(平成05年)05展覧会 生命の讃歌(代々木公園大テント)
  • 2004年(平成16年)06講演会 豊穣なる時を求めて(建築家協会)
  • 2017年(平成29年)07講演会 生命の讃歌(美術出版社出版記念講演会)
  • 2023年(令和05年)08講演会 生命の讃歌(新宿区立鶴巻図書館)

3:美瑠[編集]

  • 塚田美瑠
  • リドー住吉
  • シャンボール松濤
  • カーサ和泉
  • カーサ中目黒

4:樹下美人図考[編集]

  • 丹波屋
  • Est Esperannsa
  • Pozzo Bianca
  • Petti Etang

5:寿舞[編集]

  • 片切家
  • インディアナの家
  • 有本家
  • 小山家
  • 大島家
  • 青崎家
  • 田中家
  • 沼田家
  • 佐々木家
  • 倶会桜聴院
  • 喜多家
  • 横井邸
  • 森下邸

記事[編集]

著作[編集]

  • 梵寿綱・羽深隆雄編集・執筆『生命の讃歌 建築家梵寿綱+羽深隆雄』美術出版社、2017年2月。ISBN 9784568600452 

脚注[編集]

外部リンク[編集]