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梶原景茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
梶原景茂
『英雄百首』(歌川貞秀画)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 仁安2年(1167年
死没 正治2年1月20日1200年2月6日
別名 三郎、三郎兵衛尉
墓所 静岡県静岡市葵区長尾 梶原山公園梶原堂
官位 左兵衛尉
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家
氏族 桓武平氏良文流、梶原氏
父母 父:梶原景時、母:不詳
兄弟 景季景高景茂景義景宗景則景連
景俊景永
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梶原 景茂(かじわら かげもち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将梶原景時の三男で、鎌倉幕府御家人

生涯

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梶原景時の三男で、源頼朝に従い源平合戦(治承・寿永の乱)で戦功を挙げる。文治5年(1189年の)奥州合戦でも戦功を挙げ、建久元年(1190年)には頼朝の上洛に父景時らとともに従い、頼朝より有功の者として景時が推挙を受けたため、既に叙任を受けていた父の譲りによって左兵衛尉に任じられた[1]正治元年(1199年)、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状によって鎌倉を追われ、相模国一ノ宮梶原館へと戻る。翌正治2年(1200年)正月、一族郎党を引き連れへと上ろうとするが、途中駿河国にて在地武士団の襲撃を受け、駿河国狐ケ崎で吉川友兼一騎討ちの末、討ち取られた(友兼も戦傷で間もなく死亡)。

逸話

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文治2年(1186年)、鎌倉に呼び寄せられていた静御前の館へ、工藤祐経千葉常秀八田知重藤原邦通らと訪れ、舞を楽しんだ。しかし酔っ払って静御前を口説き、苦情が出たという逸話が『吾妻鏡』に残っている。

子孫

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鎌倉時代編纂の早馬神社縁起、江戸時代仙台藩編纂地誌『奥羽観蹟聞老志』『封内風土記』『封内名跡志』『風土記御用書出』によると、景茂の子の景永が陸奥国早馬神社に下向したとされ、現在も梶原氏子孫が宮司を務めている。

室町時代には畿内、さらに阿波国讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった。

画像集

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脚注

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  1. ^ 他に千葉常秀(祖父常胤譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉、三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重が右兵衛尉、和田義盛佐原義連足立遠元が左衛門尉、小山朝政比企能員が右衛門尉に任じられている。

参考文献

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  • 『梶原景時の生涯』
  • 『梶原平三景時』 府川松太郎
  • 『梶原景時―知られざる鎌倉本体の武士』 梶原等著 新人物往来社、2004年、ISBN 4404031874
  • 佐久間洞巖『奥羽観蹟聞老志 巻之九 気仙郡』宮城県、1883年。 NCID BA55683008NDLJP:993129 
  • 伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志 補修篇 巻之九 本吉郡』仙台叢書刊行会〈仙台叢書 第十六巻〉、1929年。 NCID BN06896627 

関連項目

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