梶正道
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文20年(1551年) |
死没 | 慶長19年2月13日(1614年3月23日) |
別名 | 金平、次郎兵衛 |
戒名 | 浄白[1] |
墓所 | 浄土寺(三重県桑名市)[1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 梶氏 |
父母 | 梶彦十郎 |
妻 | 松平助左衛門の娘[1] |
子 |
正勝、勝成、女子、勝加平治室、渡辺勝綱室、菅沼定栄室 養子:正直 |
梶 正道(かじ まさみち)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎兵衛、金平[2]。本多忠勝配下の侍大将として多くの武功を立てた[1]。諱を勝忠とし、淡路と称したともいう[3]。
生涯
[編集]『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、松平広忠に仕えた梶彦十郎の三男として生まれる[1]。能見松平家出身との主張もあるが、『寛政譜』では退けられている[3][4](#系譜節参照)。慶長19年(1614年)に64歳で没したとする記録からの逆算によれば、天文20年(1551年)生まれ。9歳で徳川家康に出仕し[1]、のちに使番となる[1]。三河国足助庄(現在の足助町)で2500石、寄子分も含め4000石を知行した[1]。
永禄7年(1564年)、一宮城の後詰めに従軍し、傷を負いながらも敵を組み討ちする武功を立てた[1]。永禄9年(1566年)からは本多忠勝に附属され、侍大将として出陣ごとに先手を務めた[1]。天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍[1]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは援軍として出馬した羽柴秀吉の追撃戦で活躍し、戸田一西・村上弥右衛門と共に「長久手の三盃」と称された[1]。天正18年(1590年)小田原征伐時の岩槻城攻撃には大手口で敵と鑓を合わせ、また城に乗り込んで鑓の枝に中黒の大旗をさして掲げ、味方の攻勢を励ます武功があった[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、桜井勝成・渡辺則綱ら本多家附属の武将たちとともに、本多家を出て徳川家に直仕する事を要請したが、家康の「おぼしめす旨」により正道は本多家にとどまるよう命じられた。
慶長19年(1614年)2月13日、伊勢国桑名[注釈 1]において64歳で没した[1]。ただし、慶長18年(1613年)に65歳で没したとする系図もある[1]。
人物・逸話
[編集]- 『寛政重修諸家譜』によれば、長篠の戦いの際、武田勢は自軍の旗を捨てて敗走したが、徳川方の兵は武田勢の旗を拾って武田方の兵を嘲笑した。これに対して武田兵は「無用の旧物であるから捨てたのだ」と応じ、新たな旗を掲げて見せた。これに対して正道が進み出て、「山県昌景や馬場信春ら甲斐の老将たちの首もわが方にあるが、これも無用の旧物なのか」と笑い、武田兵をやりこめた。のちにこのやり取りを聞いた家康は正道を称賛した(御感あり)という[1]。
- 根岸鎮衛『耳嚢』巻之五「梶金平辞世の事」によれば、梶正道(金平)は「死にともな あら死にともな 死ともな 御恩に成し君を思へば」という辞世を詠んだという。根岸鎮衛が他人から聞いた話を書き留めたものであるが、豪傑として知られた「豪気武骨」の人物が忠臣の心情を辞世とし、他人の評価を気にせずに詠んだ歌として興味を示している[5]。
系譜
[編集]『寛永諸家系図伝』(『寛永伝』)編纂時の呈譜によれば、梶氏は平氏を称した[2]。兄に彦十郎・光助という2人の兄があり、家康に仕えたとされるが、それ以上の事績は伝わっていない[1]。
『寛政重修諸家譜』(『寛政譜』)編纂時、梶家は能見松平家から分かれた家であると主張した(『寛政譜』でも、能見松平忠澄の妻が梶五郎兵衛の娘と記されている[4])。すなわち、忠澄の長男の忠綱は、松平姓を憚って母方の梶氏を称したが、忠綱の孫の代で無嗣となったため、忠綱の弟にあたる「勝忠」(次郎兵衛、金平)が家を継いだとする[3][4]。『寛政譜』編纂者は、梶家の直接の祖「勝忠」は、『寛永伝』で梶正道とある人物であり、能見松平家と結び付けた家伝は信用しがたいと考証し、『寛永伝』を基本にして系譜を作成している[4][3]。
子
[編集]『寛政譜』では3男4女(養子含む)を以下の順で記載する。
- 女子:井伊掃部頭(彦根藩)家臣某氏の妻
- 女子:勝加平治の妻
- 女子:渡辺勝綱(本多美作守家臣)の妻
- 女子:菅沼定栄(菅沼織部正家臣)の妻
- 梶正勝(梶正利):次郎兵衛。庶子のため別家。本多忠政に仕えたが、慶長19年(1614年)より徳川家康に直仕。父の旧領足助を知行地に含む400石の旗本となる。
- 梶勝成:金平、次郎兵衛、淡路。本多忠政に仕える。
- 梶正直:太郎右衛門、新右衛門。実父は渡辺勝綱、実母は正道の娘[7](すなわち外祖父の養子)。別家を立てた。小野忠常門下の剣術家で、梶派一刀流の祖として知られる[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻五百六十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.1073。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻五百六十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.1072。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻五百六十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.1072-1073。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第三十八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.198。
- ^ 耳嚢 卷之五 根岸鎭衞(藪野直史によるテキスト化・現代語訳・注記)
- ^ 『名将言行録 六』(牧野書房、1895-1896年)p.475 国立国会図書館デジタルライブラリー
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻五百六十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.1078。
- ^ “梶新右衛門”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2011年11月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第五百六十四
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/545
関連文献
[編集]- 『干城録』「梶次郎兵衛平正道」 国立公文書館デジタルアーカイブ