森岡元隆
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝8年(1680年) |
死没 | 正徳2年6月12日(1712年7月15日) |
別名 | 民部、惣内、元高、玄寿 |
墓所 | 青森県弘前市の梅林寺 |
主君 | 津軽信政 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 称・藤姓津軽氏支流森岡氏 |
父母 | 森岡元長 |
子 | 元生、元徳 |
森岡 元隆(もりおか もとたか)は、江戸時代中期の弘前藩士。
生涯
[編集]才気煥発で主君・津軽信政からの信任が厚かった。元禄15年(1702年)9月、家老となると、200石加増され、1,200石になり、宝永3年(1706年)700石、同5年(1708年)600石の加増で2,300石となった。翌年(1709年)、6代将軍・徳川家宣が全国の大名に鶴の献上を命じると、諸大名は生類憐れみの令を気にしてなかなか献上しないところ、将軍の命であるとして反対派を抑え献上し、家宣から称賛された。翌年、信政の霊廟建築の惣奉行となった。
正徳2年(1712年)、高照神社の遷宮挙式を前に死去した。実はこの死は信政を追った殉死で、信政が死去した宝永7年(1710年)の12月には自宅で切腹しており、当時殉死が禁じられていた為、2年後に届けたという。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社