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森谷新一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森谷新一
もりたに しんいち
生年月日 1903年3月31日
出生地 日本の旗 日本 岡山県和気郡日生村
(現岡山県備前市)
没年月日 (1978-12-19) 1978年12月19日(75歳没)
出身校 早稲田大学電気科卒業[注釈 1]
前職 日生町商工会長
現職 全国家具商業協同組合会長
全国家具工業会会長
所属政党 (翼賛政治会→)
無所属倶楽部

選挙区 岡山県第1選挙区
当選回数 1回
在任期間 1942年4月30日 - 1945年12月1日

日生町長

日生町会議員
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森谷 新一(もりたに しんいち、1903年明治36年)3月31日[1][2][3] - 1978年昭和53年)12月19日[1][2][4])は、昭和期の実業家政治家衆議院議員岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。

経歴

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岡山県[4]和気郡日生村[1]日生町[2][5]を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる[1][2][3]。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て[1]、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した[1][注釈 1]

朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した[1][3][5]。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた[1][2][3][4][5]

日生町会議員に選出され、1940年(昭和15年)3月、日生町長に就任[1][4][5]。町立病院の設置、赤穂線の誘致などに尽力し、1940年5月に全国で初めて主食配給切符制を採用した[1][2]大政翼賛会岡山県支部常務委員、同組織部長、岡山県翼賛壮年団副団長兼本部長、同事務局長に在任[4][5]。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け岡山県第1区から出馬して当選し[1][2][6][7]、衆議院議員に1期在任[4]。この間、翼賛政治会政調内閣委員、同商工兼務委員などを務め[5]、その後、無所属倶楽部に所属した[4]。1945年(昭和20年)12月1日に衆議院議員を辞職し[1][4][8]公職追放となった[9]

戦後、日生信用金庫、玄洋漁業 (株)、中国木造船輸出共同組合の創立に参画したが、納入代金の詐欺横領により事業を整理して埼玉県東松山市に移り、1953年(昭和28年)武蔵野木工 (株) を設立[1][10]。1961年(昭和36年)社名をモリヤに改名した[1]。その他、全国家具商業協同組合会長、全国家具工業会初代会長などを務めた[1][4]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『岡山県歴史人物事典』1014頁以外の文献では中退。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『岡山県歴史人物事典』1014-1015頁。
  2. ^ a b c d e f g 『岡山県大百科事典 下』993頁。
  3. ^ a b c d 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』242頁。
  4. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』657頁。
  5. ^ a b c d e f 『翼賛議員銘鑑』424頁。
  6. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』245頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』425頁。
  8. ^ 『官報』第5671号、昭和20年12月6日。
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿377頁。公職追放の該当事項は「推薦議員翼賛協同県事務局長同町村支部長翼壮県本部長副団長」。
  10. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』247頁。

参考文献

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  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 山陽新聞社編『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
  • 『岡山県大百科事典 下』山陽新聞社、1980年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。