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森谷良平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森谷 良平
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県静岡市
生年月日 1914年10月16日
没年月日 (1992-10-02) 1992年10月2日(77歳没)
身長
体重
177 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1948年
初出場 1948年
最終出場 1953年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - 1992年10月2日)は、静岡県静岡市出身のプロ野球選手内野手)・コーチ監督

来歴・人物

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静岡市池田出身、実家は農家。静岡商業では2年まで柔道部であったが、その後に野球部へ入部すると投手として活躍。天皇の静岡県巡幸の際、静岡中学校庭で行われた天覧野球試合を経験している。在学中に練習を見ていた藤田信男監督の熱心な勧誘を受けて法政大学へ進学し、一塁手に転向。1934年に正一塁手となってからは常にクリーンアップを担い、1936年春には同期の藤田宗一と首位打者争いをするなど活躍。1937年には主将を務めた。卒業後の1938年八幡製鉄所へ入社し、4番・一塁手で活躍。2年連続で都市対抗に出場し、1939年の全川崎戦では本塁打を打った。1948年のシーズン途中に太陽ロビンスへ入団すると、1949年は故障で89試合の出場ながらチーム2位の15本塁打を放つ。1950年には一塁手として大映スターズから大岡虎雄が移籍したため、二軍監督兼選手となる。シーズン途中に低迷していた新球団・国鉄スワローズ西垣徳雄監督に誘われて移籍すると、4番打者として104試合に出場。打率.288、21本塁打、打点56とチームトップの成績を挙げた。翌1951年は控えの選手となるが、1952年に5番打者としてレギュラーに復帰となった。1953年引退。

引退後は国鉄で二軍監督(1954年 - 1956年)→一軍コーチ(1957年)を務め、退団後の1958年からはいすゞ自動車の監督に就任し、3度の都市対抗出場に導いた。実子の忠一も慶應義塾大学卒業後の1965年にいすゞへ入社し、後に監督を務めた。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1948 太陽
大陽
13 27 24 2 5 1 0 1 9 3 0 0 0 -- 3 -- 0 5 -- .208 .296 .375 .671
1949 89 304 272 44 69 21 1 15 137 41 4 0 0 -- 31 -- 1 55 -- .254 .332 .504 .836
1950 国鉄 104 427 361 51 104 19 0 21 186 56 10 3 0 -- 65 -- 1 42 11 .288 .398 .515 .913
1951 59 169 150 18 31 4 1 3 46 22 1 1 0 -- 19 -- 0 21 6 .207 .296 .307 .603
1952 114 448 403 59 116 19 2 8 163 47 9 8 0 -- 43 -- 2 47 11 .288 .359 .404 .764
1953 50 125 117 5 28 8 1 1 41 10 1 0 0 -- 7 -- 1 19 4 .239 .288 .350 .638
通算:6年 429 1500 1327 179 353 72 5 49 582 179 25 12 0 -- 168 -- 5 189 32 .266 .351 .439 .789

背番号

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  • 4 (1948年 - 1950年途中)
  • 33 (1950年途中 - 1956年)
  • 50 (1957年)

脚注

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関連項目

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