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植村氏明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
植村氏明
時代 戦国時代
生誕 永正17年(1520年[1][2]
死没 天文21年8月4日1552年8月23日[1][2]
別名 栄康[注釈 1][3]、新六郎[1][2]
戒名 栄安[4][5]、観林院殿[注釈 2][7]
官位 出羽守[1][2]
主君 松平清康広忠竹千代
氏族 植村氏[2]
父母 父:植村氏義[1][2]
兄弟 氏明本多忠高の室、安重泰基[8]
家存氏宗[9]
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植村 氏明(うえむら うじあき)は、戦国時代三河国武将松平氏の家臣。

略歴

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三河国碧海郡北本郷の武士・植村氏義の子。父に次いで岡崎城主・松平清康に仕え、居地を岡崎城下の祐金町に移した。植村氏は三河定住に当たって北本郷の百姓の土地を押領していたが、この転居によって旧植村領に百姓が帰住したという[3][1]。天文4年(1535年)清康が森山崩れ阿部正豊に斬られた際に居合わせ、正豊を討ち取った。直後に岡崎城を襲った織田信秀勢と戦い、多数の兵を討った。天文18年(1549年)には松平広忠を殺害した下手人[注釈 3]を城外で格闘の末に討ち取ったとも伝えられている。天文21年(1552年尾張国愛知郡沓掛での戦いに31歳で戦死した[1][2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 愛知県安城市東端町の西蓮寺に伝わる「植村家御由緒書」は、栄康を氏明の父(氏義)に相当する人物の名としている[1]
  2. ^ 文化9年(1826年)に追贈[6]
  3. ^ 岩松八弥(蜂屋)と知られるが、『寛永諸家系図伝』は浅井氏としている[1][10]

出典

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参考文献

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  • 安城市史編さん委員会 編『安城市史』安城市、1971年。 
  • 安城市史編さん委員会 編『安城市史』《資料編》安城市、1973年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』《中世》新編岡崎市史編さん委員会、1989年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』《総集編》新編岡崎市史編さん委員会、1993年。 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 5巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0209-3