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植松往正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
植松往正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:加藤兵衛、惣十郎
主君 香西元載佳清
氏族 植松氏
父母 植松資正
兄弟 往正資久、諏訪教家、往由
往忠
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植松 往正(うえまつ ゆきまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将香西氏の家臣。讃岐国植松城主。

略歴

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植松氏は讃岐東部(東讃)の有力国人・香西氏の庶流である。父・植松備後守資正と同様に、往正も香西元載佳清に仕えた。

永禄11年(1568年)または元亀4年(1573年)、讃岐勢が宇喜多直家備前国児島賀陽城(通生)を攻めると、父と共に従軍し、敵将の吉田右衛門尉を討ち取った[1]。しかし次いで本太城(塩生)を攻めた時に、讃岐勢を率いていた香西元載が戦死したため、讃岐勢は引き上げた(南海通記)。天正元年(1573年)11月13日、往正は元載の子・香西佳清から感状を賜っている[2]。佳清は若年にして盲目であったため、新居資教(香西大隅守)と父が家老としてこれを補佐した[3]

元亀4年(1573年)5月から7月にかけて三好長治十河存保がその重臣・篠原長房を討伐した上桜城の戦いでは、弟・資久が長房の嗣子・長重を討ち取っている[4]

天正4年(1576年)、香西佳清の使者として新居資教が、香川元景の使者として香川元春織田信長に謁見し、香川氏と香西氏は揃って織田家に降っている[5]。更に、天正年間には、往正も信長に謁見した[2]

天正6年(1578年)1月11日、香西佳清の弟・千虎丸の香西氏相続を支持する香西清長(香西備前守)が、新居資教と父・資正を成就院にて殺害した(成就院事件)。この時、資正は73歳にして従者2人を従え、敵15人と渡り合い8人を斃したと云う[3]。往正・資久兄弟は直ちに香西城を押さえ、香西清長が籠もる作山城を囲み、備前中島に追放した[4][6]。その後は父や、離反した羽床資載に代わって、往正が香西佳清の重臣となり、讃岐・阿波を転戦した。

天正10年(1582年)7月、長宗我部元親の子・香川親和が、羽床資載と土佐国伊予国阿波国の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻し、佳清が長宗我部氏に降ると、往正は十河存之が守る十河城攻めに加わった[2]

天正13年(1583年)5月、豊臣秀吉による四国攻めが起こると、往正は香西佳清の後妻を警護した[2]

その後の消息は不明であるが、子・往忠は、生駒一正に仕え、朝鮮出兵において戦功を挙げ、感状並びに領地を得て、さらに関ヶ原の戦いで戦功を挙げている[2]

脚注

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  1. ^ 『香西史』第二編 第八章 三好時代
  2. ^ a b c d e 『香西史』第八編 第四章 第五節 資正ノ一族
  3. ^ a b 『香西史』第二編 第十章 長曽我部時代
  4. ^ a b 『香西史』第九編 第八章 第八節 植松久助
  5. ^ 『香西史』第二編 第九章 織田時代
  6. ^ 第九編 第二章 第一節 良運法師

参考文献

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  • 『香西史』(香川県香西町編、香川県香西町、1930年)