植松往正
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:加藤兵衛、惣十郎 |
主君 | 香西元載→佳清 |
氏族 | 植松氏 |
父母 | 植松資正 |
兄弟 | 往正、資久、諏訪教家、往由 |
子 | 往忠 |
植松 往正(うえまつ ゆきまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。香西氏の家臣。讃岐国植松城主。
略歴
[編集]植松氏は讃岐東部(東讃)の有力国人・香西氏の庶流である。父・植松備後守資正と同様に、往正も香西元載・佳清に仕えた。
永禄11年(1568年)または元亀4年(1573年)、讃岐勢が宇喜多直家の備前国児島の賀陽城(通生)を攻めると、父と共に従軍し、敵将の吉田右衛門尉を討ち取った[1]。しかし次いで本太城(塩生)を攻めた時に、讃岐勢を率いていた香西元載が戦死したため、讃岐勢は引き上げた(南海通記)。天正元年(1573年)11月13日、往正は元載の子・香西佳清から感状を賜っている[2]。佳清は若年にして盲目であったため、新居資教(香西大隅守)と父が家老としてこれを補佐した[3]。
元亀4年(1573年)5月から7月にかけて三好長治と十河存保がその重臣・篠原長房を討伐した上桜城の戦いでは、弟・資久が長房の嗣子・長重を討ち取っている[4]。
天正4年(1576年)、香西佳清の使者として新居資教が、香川元景の使者として香川元春が織田信長に謁見し、香川氏と香西氏は揃って織田家に降っている[5]。更に、天正年間には、往正も信長に謁見した[2]。
天正6年(1578年)1月11日、香西佳清の弟・千虎丸の香西氏相続を支持する香西清長(香西備前守)が、新居資教と父・資正を成就院にて殺害した(成就院事件)。この時、資正は73歳にして従者2人を従え、敵15人と渡り合い8人を斃したと云う[3]。往正・資久兄弟は直ちに香西城を押さえ、香西清長が籠もる作山城を囲み、備前中島に追放した[4][6]。その後は父や、離反した羽床資載に代わって、往正が香西佳清の重臣となり、讃岐・阿波を転戦した。
天正10年(1582年)7月、長宗我部元親の子・香川親和が、羽床資載と土佐国・伊予国・阿波国の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻し、佳清が長宗我部氏に降ると、往正は十河存之が守る十河城攻めに加わった[2]。
天正13年(1583年)5月、豊臣秀吉による四国攻めが起こると、往正は香西佳清の後妻を警護した[2]。
その後の消息は不明であるが、子・往忠は、生駒一正に仕え、朝鮮出兵において戦功を挙げ、感状並びに領地を得て、さらに関ヶ原の戦いで戦功を挙げている[2]。
脚注
[編集]- ^ 『香西史』第二編 第八章 三好時代
- ^ a b c d e 『香西史』第八編 第四章 第五節 資正ノ一族
- ^ a b 『香西史』第二編 第十章 長曽我部時代
- ^ a b 『香西史』第九編 第八章 第八節 植松久助
- ^ 『香西史』第二編 第九章 織田時代
- ^ 第九編 第二章 第一節 良運法師
参考文献
[編集]- 『香西史』(香川県香西町編、香川県香西町、1930年)