コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

椎原国幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
椎原与右衛門から転送)
 
椎原 国幹
時代 江戸時代末期幕末) - 明治時代後期
生誕 文政3年(1820年
死没 1899年明治32年)10月26日
改名 鉄太郎(幼名) → 予三次 → 与右衛門 → 国幹
別名 号:厚助
幕府 江戸幕府
薩摩藩
父母 椎原国紀
兄弟 国蕃国幹
嘉八郎、春子(川村純義
テンプレートを表示

椎原 国幹(しいはら くにもと、文政3年(1820年) - 1899年明治32年)10月26日)は、江戸時代末期から明治時代後期にかけての薩摩藩士鹿児島県典司島津家家令西郷隆盛の母方の叔父

来歴・人物

[編集]

薩摩国谿山郡谷山郷中村の平馬場(現在の鹿児島市中山町付近)に生まれる。長男にあたる隆盛とは年齢が近かったため、実際にはのような存在であった。なお、『本藩人物誌』に登場する、島津義弘殉死した椎原与右衛門国林は先祖にあたる。薩摩藩士時代の家格は代々新番であることが、「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集六」の『御家忠死略称』より分かる。

薩摩藩では諸受持掛御郡奉行、維新後は鹿児島県の民事総裁を務めた。1877年明治10年)の西南戦争では西郷軍に付くが、敗戦と同時に延岡で降伏、宮城監獄にて2年間服役した。嫡子である嘉八郎も西郷側に従軍したが、銃創を負い、宮崎病院にて20歳で死去した。・春子は川村純義に嫁いだ。

服役後は鹿児島県教育発展後進育成に尽力し、1881年(明治14年)には公立鹿児島学校校長に就任。のち、島津忠済の家令も努めた。80歳

系図

[編集]
                    大久保利通━━━利武
                  西徳二郎━━━竹一 ┃
      西郷吉兵衛              ┃  ┃
         ┃               ┣泰徳┣━━利謙
         ┣━━━━隆盛         ┃  ┃
         ┃         ┏鉄太郎━武子  ┃
        ┏政佐  川村純義  ┃       ┏栄
        ┃     ┃    ┃  近藤廉平━┫
椎原国紀━━━━┫     ┣━━━━┫       ┗廉治
        ┃     ┃    ┗常子      ┃
        ┗国幹━━━春子    ┃       ┃
                    ┃       ┃
                    ┃      ┏泰子
            ┏━伝蔵    ┣━━━━━━┫
            ┃       ┃      ┗正子
      橋口与三次━┫       ┃       ┃
            ┃       ┃       ┃
            ┗━樺山資紀━━愛輔      ┃
                            ┃
                            ┃
                     白洲文平━━━次郎

                     

関連文献

[編集]
  • 「鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に」(山田尚二、1979年(昭和54年))
  • 「郷土と日本を築いた熱き薩摩の群像700名」(下竹原弘志編、1990年(平成2年))
  • 「百年誌 龍門」(鹿児島県立加治木高等学校百年誌編集企画委員会編、1997年(平成9年))
  • 「樟風遙か 甲南高校創立百周年 同窓会記録誌」(甲南高校創立百周年記念事業同窓会実行委員会編、2006年(平成18年))