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椎原兵市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

椎原 兵市(しいはら ひょういち 1884年 - 1966年)は、日本の造園家。作庭家。宮内の宮廷庭園技師、また関一市長率いる大阪市の緑化事業、公園設計で活躍した。

人物

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1884年(明治17年)大分市に生まれる。1907年(明治40年)に京都高等工芸学校(後の京都工芸繊維大学)図案科を卒業、1909年(明治42年)から宮内省内苑寮園芸課に奉職、上司市川之雄の薫陶を受ける。1920年(大正9年)まで、この時期主な担当作品は東宮御所(明治42年)、武庫離宮(大正3年)などがあり、宮廷庭園の設計や施工に従事したほか、国会議事堂本建築設計競技(大正7,8年)参加や京都御所伊勢神宮出雲大社等の外苑設計に携わった。

1920年(大正9年)から京都高等工芸学校時代の恩師武田五一の推挙により[1]大阪市に移り都市計画を担当。都市計画法制定にともなって、大阪市の初期都市計画公園整備の指標を樹立させることとなる。1922年(大正13年)に土木部公園課長就任。

1928年(昭和3年)に御大礼奉祝記念事業が各地でおこなわれるに当たり、大阪市は、大礼記念大阪城公園新設を最大の目標とし、その整備基本計画を作成。公園整備はその後しばしば計画の変更があったが、当初計画は椎原の発想のものが多かった[2]。 同年、『庭園の設計と其実例』(造園叢書)出版。

1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて、街路緑化事業として、有名な御堂筋の銀杏の大並木通りを完成し今日の美観を残す[3]。大阪市時代ではそのほか天王寺公園及び動物園の拡張、城北公園、桃が池公園、新淀川公園等の開設、そのほか、服部、爪破の両霊園を完成まで終始自主努力して、公園を生み出した。

1940年(昭和15年)に退職し、同年庭園設計事務所を開設。 その後(昭和21年)に終戦後の1947年(昭和22年)には、大阪造園土木株式会社を設立して民間造園の設計施工に尽した後、会社は1953年(昭和28年)に退社。同年に造園設計事務所を開設する。

この民間時代はダイハツ工業池田第二地区工場庭園など、数々の工場敷地の緑化を進めたが、ほかに地方自治体では伊丹市白城市和歌山市徳島市などの都市公園計画にも参画していく。例えば徳島市では市内各地の景観設計を指導(市民会館前庭、徳島児童文化公園(現・徳島文化公園)、動植物公園、眉山ドライブウェイやあわぎん眉山ロープウェイ、蜂須賀候史跡表書院、千秋閣庭園(旧徳島城表御殿庭園)他)[4]のほかは、徳島駅前通り・徳島駅駅前から阿波おどり会館までの中央分離帯のヤシの木並木(尾関太郎(徳島県職員)らと、1953年)、ヴェンセスラウ・デ・モラエス翁記念碑(モラエスの石碑、徳島市新町橋、1954年)[5]に関与。

1958年、建設大臣より功績顕彰[6]

特徴

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椎原は課長になっても社長になっても造園事業や風致及び緑化計画等を自ら手を動かして設計を行い、あるいは事業に参画したことが知られている。図案科卒業ということもあってすぐれた製図家で、宮廷庭園の設計、都市公園の設計において、卓越した造園の製図技法と技術、表現方法は当時の国内に並ぶものがなかったといわれる。

大正12年の著書「都市計画図」、大正13年の「現代庭園図譜」で、実測図等高線を入れた地割設計図鳥瞰図を付し、また、図の線の強調、コンターラインの工夫、花形マークを用いた樹木表現等を実践し、図面の表現手法を開拓した。

代表作

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明治42年以降に手がけた作品  宮内時代・市川之雄らと

昭和2年から、大阪市公園課長時代

  • 別府中山別荘(旧 和田別荘「致楽荘」)庭園改造(1920年)[9]
  • 大手前配水池上部庭園(1920年)[10]
  • 秋田農園(1922)[7]
  • 名張遊園地(1923、1927)[7]
  • 大津市都市計画図(1923)[7]
  • 芦屋中山邸(1923)[7]
  • 打出奥山地所(1925)[7]
  • 千里山花壇改修(1925-1927年、1939年)[11][12]
  • 香里遊園地(1926)[7]
  • 中之島公園[13] 大阪市農会と協力し郊外の農地に2箇所の市民農園を設置(1926)
  • 宮津市御成婚記念公園(1927)[7]
  • 伊賀上野城址公園
  • 佐世保御成婚記念公園
  • 天理教敷島大教会の境内と庭園(奈良県桜井市、1930) [14]
  • 大阪城公園(1931年、1948年)[11]
  • 大阪城本丸日本庭園天臨閣(1931年)[1] 御堂筋銀杏並木(1937年)[11][15]
  • 天王寺公園の拡張と動物園改造[16] [17]
  • 大阪市の街園(街路事業「街角緑地」、1935年~)[18]
  • 城北公園・園内農業分区園(1934年)[19]
  • 大阪新淀川公園
  • 服部墓地(服部霊園
  • 瓜派墓地(瓜派霊園
  • 臼杵城址公園
  • 伊丹市緑ヶ丘公園
  • 池田市五月山公園と公園内展望台
  • 徳島文化公園改造
  • 蛍山公園
  • 武庫川河畔文化村(1927)[7]
  • 寝屋川警察官住宅(1927)[7]
  • 芦屋中央邸(1927)
  • 枚方遊園地(1927)[7]
  • 大阪中央放送局千里放送所(1928)[7]
  • 鬼取山荘園(1930)[7]
  • 広楽園改造計画(1932)[7]
  • 桃花塾庭園(大阪府富田林市[20]

著書

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参考文献

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  • 「椎原兵市氏の作品と業績」椎原兵市氏の業績と作品出版委員会 1967年
  • 椎原兵市(1958):大阪市の公園を回顧して,公園緑地,第20巻第3・4号
  • 高橋宏樹, 宮城俊作「椎原兵市の遺した図面からみた戦前の造園設計における平面図の意味と役割」『ランドスケープ研究』 1999年 63巻 5号 p.753-758, doi:10.5632/jila.63.753
  • 八尾修司, 山口敬太, 川崎雅史「戦前期大阪における公園道路網計画と桃ヶ池・田邊公園道路の形成」『土木学会論文集D1(景観・デザイン)』第71巻第1号、土木学会、2015年、95-107頁、CRID 1390282680332591104doi:10.2208/jscejaie.71.95ISSN 2185-6524 

脚注

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  1. ^ a b 大阪城の庭 大阪の庭
  2. ^ 小野芳朗「大阪城公園の初期計画における設計者椎原兵市の意図」『ランドスケープ研究』第76巻第5号、日本造園学会、2013年、417-420頁、CRID 1390282680646700800doi:10.5632/jila.76.417ISSN 13408984 
  3. ^ 小野芳朗, 前田健太郎, 石田潤一郎, 「大阪御堂筋の街路樹景観 イチョウ並木の建設過程と主体」『都市計画論文集』 46巻 3号 2011年 p.289-294, doi:10.11361/journalcpij.46.289
  4. ^ 関 祥菜, 阿部 萌音, 佐藤 征弥 : 旧徳島城表御殿庭園の調査, --- 江戸期と現在の石組みと植栽の比較 ---徳島生物学会第145回総会, 2022年1月
  5. ^ 平成28年度徳島大学総合科学部部局長裁量経費総合科学部創生研究プロジェクト実践報告 : モラエス顕彰による地方創生プロジェクト 徳島大学地域科学研究
  6. ^ 井下清, 「椎原兵市君の表彰」『造園雑誌』 22巻 4号 1958年 p.21, doi:10.5632/jila1934.22.4_21
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 高橋・宮城(1999)
  8. ^ a b 小野芳朗「岡山招魂社創建と「公園」の空間変容」『日本建築学会計画系論文集』第76巻第659号、日本建築学会、2011年、67-74頁、CRID 1390001204779013504doi:10.3130/aija.76.67ISSN 1340-4210 
  9. ^ 別府歴史資料デジタルアーカイブ
  10. ^ 大阪城大手前配水池の造形に関する史的研究 - 土木学会
  11. ^ a b c 千里山花壇の設計図について - 関西大学
  12. ^ 千里山開発物語(三)
  13. ^ 都市内共同体をつくる - 西山文庫
  14. ^ 高橋知奈津, 粟野隆「026 奈良県の近代和風造園」『奈良文化財研究所紀要 : 奈良文化財研究所紀要』第2010巻、独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所、2010年6月、48-49頁、CRID 1390290700446710016doi:10.24484/sitereports.14512-10481ISSN 1347-1589 
  15. ^ 景観デザイン規範事例集(道路・橋梁・街路・公園編)
  16. ^ 日造協ニュース
  17. ^ 7 公園特集号 椎原兵市「天王寺公園 の沿革と全貌」他
  18. ^ 近代以降の小広場空間とその展開に関する研究
  19. ^ JILA_83-3-294
  20. ^ 社会福祉法人 桃花塾障害者支援施設・地域福祉サービス website