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椎橋宗輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

椎橋 宗輔(しいはし そうすけ、天保9年12月21日1839年2月4日) - 明治37年(1904年2月5日)は、明治時代の日本の政治家。大綱村長神奈川県会議員などを務めた[1]

人物

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武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・神奈川県横浜市港北区大豆戸町)に生まれる[1]。 椎橋家は、寛保年間に没したとされる三九郎を初代とする旧家である[2]。 椎橋家七代目に当たる宗輔は、安政3年(1856年)1月2日、父・忠兵衛より家督を相続し、幕末から明治にかけて、大豆戸村の名主及び戸長を務めたほか、その後も、大綱村会議員、大綱村長(2期)を務めた[1][2]。 明治12年(1879年)には、県会の設置に伴う神奈川県初の県会議員選挙に出馬し当選[1][3]。以後も、明治14年(1881年)、明治17年(1884年)、明治20年(1887年)の改選に連続して当選し、明治21年(1888年)1月の県会解散に至るまで、9年1か月にわたって在職[1][4]。初期の神奈川県会を担った[5]

明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が発布されると、国会開設、初の衆議院議員選挙に備え、自由民権運動各派による大同団結の機運が高まった[6][7]。神奈川県においては前の神奈川県令であった中島信行を監督とした全県的大組織「神奈川県倶楽部」が結成され、宗輔も常議委員としてこれに参画した[6][8]

このほか、明治期における横浜港からアメリカへ向けた輸出の活況を背景に、「神奈川県武蔵国橘樹郡茶業組合」が結成された際の資料には、茶製造人・茶商人総代として宗輔らの名があり、組合結成の中心になったと見られている[9]

脚注

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  1. ^ a b c d e 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1 神奈川県歴史人名事典』(神奈川県,1983)365頁〔椎橋宗輔の項〕
  2. ^ a b シリーズ わがまち港北 第129回 港北の名望家 -大日本博覧絵- - 公益財団法人大倉精神文化研究所
  3. ^ 小林孝雄『近代川崎の民衆史 明治人とその風土』(けやき出版,1992)165頁
  4. ^ 神奈川県議会事務局編 『神奈川県会史 第1巻』(神奈川県議会,1953)274頁、295頁
  5. ^ 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史4編 近代・現代1』(神奈川県,1980)293頁
  6. ^ a b 『近代川崎の民衆史』218頁
  7. ^ 色川大吉『流転の民権家 村野常右衛門伝』(大和書房,1980)154頁
  8. ^ 『流転の民権家』153頁
  9. ^ 西川武臣「旧家に残された資料から-橘樹郡茶業組合について-」館報 開港のひろば - 横浜開港資料館

外部リンク

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