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楊奐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 奐(よう かん、1186年 - 1255年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は煥然。乾州奉天県の出身。

概要

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楊奐は11歳の時に母が亡くなると勉学に励み科挙に挑んだが受からず、やむなく郷里に帰って教授を行っていた[1]1233年癸巳)に開封を支配する崔立がモンゴルに降ると楊奐も捕虜として連行されたが、その途上で趙天錫に師友の礼でもって迎え入れられた[2]。また、東平の大軍閥である厳実も楊奐を招こうとしたが、趙天錫に気兼ねしてか遂に一度も厳実の下を訪れることはなかったという[3]

1238年戊戌)にいわゆる「戊戌の選試」が実施されると、楊奐は東平地方でこれを受け、賦論・賦詩ともに合格した[4]。監試官に従って北上すると、朝廷の高官である耶律楚材に才を見込まれ、推薦を受けて河南路徴収課税所長官・兼廉訪使の地位を授けられた[5]

その後、第4代皇帝モンケが即位するとその弟のクビライが東アジア方面の経略を任せられたため、1252年壬子)に楊奐は京兆宣撫司事に抜擢された[6]1255年乙卯)には病が悪化したため、死後の事を平時のように処置した上で、大笑して70歳にして亡くなったという[7]。楊奐は博覧強記で知られていたため、朝廷の諸老は皆楊奐と交流を持ったと伝えられている[8]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻153列伝40楊奐伝,「楊奐字煥然、乾州奉天人。母嘗夢東南日光射其身、旁一神人以筆授之、已而奐生、其父以為文明之象、因名之曰奐。年十一、母歿、哀毀如成人。金末挙進士不中、乃作万言策、指陳時病、皆人所不敢言者、未及上而帰、教授郷里」
  2. ^ 『元史』巻153列伝40楊奐伝,「歳癸巳、金元帥崔立以汴京降、奐微服北渡、冠氏帥趙寿之即延致奐、待以師友之礼。門人有自京師載書来者、因得聚而読之。東平厳実聞奐名、数問其行蔵、奐終不一詣」
  3. ^ 安部1972,24頁
  4. ^ 安部1972,24頁
  5. ^ 『元史』巻153列伝40楊奐伝,「戊戌、太宗詔宣徳税課使劉用之試諸道進士。奐試東平、両中賦論第一。従監試官北上、謁中書耶律楚材、楚材奏薦之、授河南路徴収課税所長官、兼廉訪使。奐将行、言於楚材曰『僕不敏、誤蒙不次之用、以書生而理財賦、已非所長。又況河南兵荒之後、遺民無幾、烹鮮之喩、正在今日、急而擾之、糜爛必矣。願假以歳月、使得撫摩瘡痍、以為朝廷愛養基本萬一之助』。楚材甚善之。奐既至、招致一時名士与之議、政事約束一以簡易為事。按行境内、親問塩務月課幾何・難易若何。有以増額言者、奐責之曰『剥下欺上、汝欲我為之耶』。即減元額四之一、公私便之。不踰月、政成、時論翕然、以為前此漕司未之有也。在官十年、乃請老于燕之行台」
  6. ^ 牧野2012,349/416頁
  7. ^ 『元史』巻153列伝40楊奐伝,「壬子、世祖在潜邸、駅召奐会議京兆宣撫司事、累上書、得請而帰。乙卯、疾篤、処置後事如平時、引觴大笑而卒、年七十。賜諡文憲」
  8. ^ 『元史』巻153列伝40楊奐伝,「奐博覧強記、作文務去陳言、以蹈襲古人為耻。朝廷諸老、皆折行輩与之交。関中雖号多士、名未有出奐右者。奐不治生産、家無十金之業、而喜周人之急、雖力不贍、猶勉強為之。人有片善、則委曲称奨、唯恐其名不聞。或小過失、必尽言勧止、不計其怨怒也。所著有還山集六十巻・天興近鑑三巻・正統書六十巻、行于世」

参考文献

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  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 元史』巻153列伝40楊奐伝
  • 新元史』巻237列伝134文苑上楊奐伝