コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

楊絳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊季康から転送)
楊 絳
楊絳、1941年
誕生 楊 季康
(1911-07-17) 1911年7月17日
清の旗 直隷省順天府
(現:北京市
死没 2016年5月25日(2016-05-25)(104歳没)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市
職業 作家、翻訳家
言語 中国語、英語フランス語スペイン語
国籍 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
最終学歴
清華大学
オックスフォード大学
パリ大学
活動期間 1943年 — 2016年
ジャンル 小説、散文
代表作 『幹校六記』
『洗澡』
『我們仨』
配偶者 銭鍾書 (1935年—1998年)
子供 銭瑗(女)
親族 楊蔭杭(父)
楊蔭楡(叔母)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
楊 絳
各種表記
繁体字 楊 絳
簡体字 杨 绛
拼音 Yáng Jiàng
英語名 Yang Jiang
テンプレートを表示

楊 絳(よう こう、1911年7月17日 - 2016年5月25日)は、中国作家翻訳家[1][2]。もとの名は季 康。代表作に『幹校六記』『洗澡』『我們仨』。

略歴

[編集]

本貫江蘇省常州府無錫県で、1911年7月17日に順天府(現:北京市)に生まれる。父の楊蔭杭は東京早稲田大学の卒業生。 1923年、父親に連れられ江蘇省蘇州市に引っ越す。

1928年に蘇州東呉大学[3]に入学し、1932年7月に卒業。卒業後北京清華大学に進学、在学中に夫となる銭鍾書と知り合う。1935年に結婚し、同年にイギリスやフランスへ留学した。

1938年、銭鍾書を連れて帰国。上海震旦女子文理学院外語系教授、清華大学西語系教授を歴任する。1953年、北京大学文学研究所、中国科学院文学研究所、中国社会科学院外国文学研究所の研究員にも就任した。

文化大革命から五七幹部学校に下放され労働に従事、文化大革命で受けた攻撃も激しかった[4]

1981年、『幹校六記』を発表。

1997年3月4日、彼女の娘の銭瑗が脊椎で亡くなり、翌1998年12月19日、夫の銭鍾書が亡くなる。

2001年、『従丙午到流亡』を発表。2003年、『我們仨』(『私たち三人』)を発表。96歳だった2008年には『走到人生辺上:自問自答』を出版した。

2016年5月25日、北京協和医院中国語版英語版で死去。104歳没[5]

著書

[編集]

散文

[編集]
  • 『我們仨(私たち三人)』生活.三聯書店、北京市、2012年9月1日。ISBN 9787108042453 
  • 『走到人生辺上:自問自答』商務印書館、北京市、2012年9月1日。ISBN 9787100056106 
  • 『将飲茶』三聯書店、北京市、2015年5月1日。ISBN 9787108051707 
  • 『幹校六記』三聯書店、北京市、2015年4月1日。ISBN 9787108051721 
    • 中島みどり訳『幹校六記 〈文化大革命〉下の知識人』みすず書房、1985年2月
  • 『雜憶と雜寫』三聯書店、北京市、2010年1月1日。ISBN 9787108034601 
  • 『隠身の串門児』三聯書店、北京市、2015年4月1日。ISBN 9787108051738 

小説

[編集]
  • 『洗澡(風呂)』人民文学出版社、北京市、2013年1月1日。ISBN 9787020090501 
    • 中島みどり訳『風呂』みすず書房、1992年10月
  • 『洗澡之後』人民文学出版社、北京市、2014年8月1日。ISBN 9787020105526 

訳著

[編集]

受賞

[編集]

評価

[編集]

「最も才能があり、最も良い妻」 - 銭鍾書。

脚注

[編集]