銭鍾書
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銭鍾書 | |
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銭鍾書 | |
ペンネーム | 槐聚 |
誕生 |
銭仰先 1910年11月21日 清 江蘇省常州府無錫県 |
死没 |
1998年12月19日 (88歳没) 中華人民共和国 北京市 |
職業 | 文学研究者、作家 |
言語 | 中国語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ラテン語、イタリア語[1] |
国籍 | 中華人民共和国 |
最終学歴 |
清華大学 オックスフォード大学 |
活動期間 | 1938年—1998年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『囲城』 『談芸録』 |
配偶者 | 楊絳(1935年—1998年) |
子供 | 銭瑗(女) |
親族 | 銭基博(父) |
ウィキポータル 文学 |
銭鍾書 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 錢鍾書 |
簡体字: | 钱锺书 |
拼音: | Qián Zhōngshū |
英語名: | Qian Zhongshu |
銭 鍾書(せん しょうしょ、1910年11月21日 - 1998年12月19日)は、中国の作家・文学研究者[2]。字は黙存(もくそん)、号は槐聚(かいしゅ)[3]、代表作に『囲城』『談芸録』『管錐編』。銭鍾書は英仏独の諸言語に通暁した。
略歴
[編集]- 1910年11月21日、江蘇省常州府無錫県に生まれた。父の銭基博は儒学者。無錫東林小学・蘇州桃塢中学・米国聖公会無錫市輔仁高級中学卒業[4]。
- 1929年に清華大学外文系に入学。入学試験の得点において、数学は15点(100点満点、合格は60点)、英語は満点。在学中に後に妻となる楊絳と知り合った。
- 1933年に卒業した後、上海光華大学(現在の華東師範大学)で教職についた。
- 1935年に結婚し同年にイギリスやフランスへ留学。1938年秋に北京に帰り、清華大学教授に還任した。翌年、湖南湘西国立藍田師範学院の英文系主任に転任。
- 1941年、震旦女子文理学校の教員となった。随筆集『写在人生辺上』(開明書店)を出版。
- 1945年、上海曁南大学の外文系教授となる。南京中央図書館英文館刊『書林季刊』の編集者を兼務。
- 1947年、長編小説『囲城』(上海晨光出版公司)を出版。1949年、清華大学に戻り、以降外文系の教授として教鞭をとる。
- 1957年に父が病死する。1958年、『宋詩選註』(人民文学出版社)を出版。
後半生
[編集]文化大革命による迫害で、五七幹部学校に下放され労働に従事した。1970年6月、婿の王徳一が無実の罪を着せられ自殺。
1979年4月から5月までの間、アメリカを訪れる。1980年11月には来日。
1984年に『也是集』(香港、広角鏡出版社)を、1985年に『七綴集』(上海古籍出版社)を出版。
1997年3月4日、一人娘の銭瑗が脊椎癌で亡くなった。1998年12月19日、北京で死去した。享年88歳。
著書
[編集]- 『銭鍾書集』三聯書店、北京市、2011年11月1日。ISBN 9787108036834。
- 『管錐編』三聯書店、北京市、2014年1月1日。ISBN 9787108027467。
- 『宋詩選註』人民文学出版社、北京市、2013年4月1日。ISBN 9787020090976。
- 日本語訳『宋詩選注』 宋代詩文研究会訳注(平凡社東洋文庫 全4巻、2004-05年)
- 『談芸録』商務印書館、北京市、2011年12月1日。ISBN 9787100086240。
- 『槐聚詩存』三聯書店、北京市、2002年2月1日。ISBN 9787108016782。
散文
[編集]- 『人 獣 鬼』三聯書店、北京市、2015年3月1日。ISBN 9787108016850。
小説
[編集]論文
[編集]- 『17世紀および18世紀英国文学における中国』
- オックスフォード大学卒業論文、帰国後の1940年に国立北平図書館の英文雑誌『図書季刊』に掲載
故居
[編集]- 銭鍾書故居(銭縄武堂):江蘇省無錫市梁渓区健康路新街巷30号、32号[5]。
関連出版
[編集]- 楊絳『別れの儀式 楊絳と銭鍾書 ある中国知識人一家の物語』、夫人の回想
外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ “钱钟书访美用多国语言演讲 开口语惊四座” (中国語). 鳳凰網. (2012年5月19日)
- ^ “钱钟书迷恋读辞典” (中国語). 網易. (2016年8月19日)
- ^ “銭鍾書”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年10月17日閲覧。
- ^ “从无锡到牛津:钱锺书求学期间的几个疑问” (中国語). 光明網. (2016年8月7日)
- ^ “无锡民众前往钱钟书故居缅怀杨绛先生” (中国語). 鳳凰網. (2016年5月26日)