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楊廣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 広(よう こう、? - 32年)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将。春卿涼州隴西郡上邽県の人。

姓名 楊広
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 32年
字・別号 春卿(字)
本貫・出身地等 涼州隴西郡上邽県
職官 右将軍〔隗囂〕 
爵位・号等 -
陣営・所属等 隗囂
家族・一族 〔不詳〕

事跡

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隴右[1]に割拠した新末後漢初の群雄の一人の隗囂の配下である。

更始帝(劉玄)が即位し、王莽が敗北したと聞いて、成紀(天水郡)の豪族の隗崔(隗囂の叔父)・隗義(隗囂の兄)が挙兵しようとすると、楊広は冀県(天水郡)の周宗と共にこれに呼応し、鎮戎の大尹(新制における天水郡の太守)を討ち取っている。その後、隗囂が上将軍として頭領に推戴されると楊広も配下に加わり、漢復元年(23年)7月に隗囂が郡国に発した漢朝復興の檄においても、楊広は右将軍として名を列ねた。

その後、隗囂は更始帝の招請に応じて長安入りしているが、結局対立して帰還している。建武2年(26年)、長安を支配していた赤眉軍が隴県(天水郡)に向かって進軍してくると、楊広は隗囂の命令を受けて迎撃し、烏枝(安定郡)・涇陽(左馮翊池陽県など)の間まで追撃して赤眉軍を大いに破った。

その後も、楊広は隗囂の腹心の一人としてその統治を補佐している。建武7年(31年)、隗囂が公孫述の傘下となり、朔寧王に封じられて漢に叛いたため、楊広もこれに追従した。この際に、旧交があった馬援から漢への帰順を促す手紙を受け取っているが、楊広はこれに応じなかった。

建武8年(32年)になると、隗囂軍は政軍両面で次々と漢軍に切り崩され窮地に陥る。楊広は、隗囂とその妻子を守りつつ西城(隴西郡)に立て籠もったが、漢の呉漢岑彭の軍に包囲されてしまう。そして、包囲から1カ月余りして、楊広は死去した。死因は不明である。

脚注

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  1. ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋代のわずかな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。

参考文献

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  • 後漢書』列伝3隗囂伝
  • 同列伝14馬援伝