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楊 炅(よう けい、生年不詳 - 496年)は、中国の南北朝時代の仇池氐の首長。陰平王。
楊広香の子として生まれた。父に従って南朝斉に帰順し、北部鎮将軍郡事となった。南朝斉の高帝により征虜将軍・武都郡太守に任じられた[1]。
483年、南朝斉の武帝により沙州刺史とされ、陰平王に封じられた[2]。
491年、南朝斉の武帝により前将軍の号を受けた[1]。
494年、南朝斉の皇帝蕭昭業により使持節・都督沙州諸軍事・平西将軍・平羌校尉・沙州刺史とされた[3]。同年、陰平王として北魏に来朝した[4]。
495年、南朝斉の明帝により安西将軍の号に進められた。496年、楊炅は死去した。子の楊崇祖が後を嗣いで陰平王となった[1]。
- ^ a b c 『南斉書』氐楊氏伝
- ^ 『南斉書』氐楊氏伝による。楊炅が沙州刺史となったことは、同書武帝紀永明元年2月辛巳の条にも見える。
- ^ 『南斉書』氐楊氏伝による。楊炅が再び沙州刺史となったことは、同書鬱林王紀隆昌元年夏4月戊戌の条にも見える。
- ^ 『魏書』高祖紀下太和18年9月壬辰の条