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楚漢春秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楚漢春秋(そかんしゅんじゅう)は、古代中国の前漢代、紀元前2世紀陸賈が著した歴史書である。の末期からの初めまでを扱う。全9篇。失われた。逸文が伝わる。

解説

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陸賈は劉邦に仕えた儒者で、『新語』12篇を著して国の興亡を筋道だてて説いた人である[1]

『楚漢春秋』9篇は、『漢書』芸文志が載せる書籍一覧の中で挙げられており[2]後漢の書庫に収蔵されていたのであろう。「楚漢」の楚は、秦の滅亡後に劉邦の漢と天下を争った項羽西楚を指す。『春秋』は孔子が編纂したとされる歴史書である。『史記索隠』や『史記集解』といった『史記』の注釈書のほか、北宋時代の『太平御覧』で参照されるので、10世紀まで読まれたことは確かだが、今では失われた。書籍に引用された逸文を、代に茆泮林が集めたのが『十種古逸書』である[3]

逸文を通じて知られる内容でもっとも古いのは、滅亡直前の楚のために戦った将軍項燕が殺されたことである[4]。もっとも新しい内容は、文帝時代の呉の太子劉賢の名である[5]。よって、対象にした時代はおおよそこの範囲であろう[6]。そのほか、項梁の蜂起、鴻門の会、項羽が劉邦の父を殺すと脅したこと、垓下の戦い韓信が若い頃ある亭長の家に寄食してその妻に冷遇されたこと、背水の陣、王となった韓信が失脚して淮陰侯となること、劉邦の太子(後の恵帝)が廃されそうになったときに輔佐役となった4人の賢者のことなど、『史記』に見える多くの有名なエピソードが『楚漢春秋』にも記されていた[7]

『史記』による利用

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司馬遷は楚漢の時代を扱うときに『楚漢春秋』を「述べた」と、『漢書』司馬遷伝にはある[8]。「述べて作らず」は当時の美徳であり、司馬遷自身も「故事を述べるのであり」「作るのではない」と答えたことがある[9]。さらに言えば『漢書』も、『史記』と重なるところでは同じ文章で綴ることが多い。『楚漢春秋』と『史記』の関係でも、材料として利用しただけにとどまらず、同じ文で書いた箇所が含まれる可能性がある。『史記索隠』や『史記集解』は、『史記』と『楚漢春秋』の違いをいちいち記しており、これは違いが多いことと同時に、違わない点もまた多いことを裏から示唆するものである。劉知幾は、8世紀初めの『史通』で、『史記』と『楚漢春秋』には異なる点が多いと評し、特に酈食其が劉邦に面会したときの話、劉邦が鴻鵠を歌った話はまったく異なると指摘した。酈食其についての異伝は逸文で伝わる[10]。結局、『史記』は『楚漢春秋』を利用しているが、まったく引き写したというわけではなく、他の多くの資料の中の一つとして使ったのであろう[11]

脚注

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  1. ^ 『史記』酈生陸賈列伝第37、岩波文庫『史記列伝』第3巻113 - 114頁。『漢書』酈陸朱劉叔孫伝第13、ちくま学芸文庫『漢書』第4巻406頁。
  2. ^ 『漢書』芸文志第10、ちくま学芸文庫『漢書』第3巻524頁。
  3. ^ 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、216頁注18。
  4. ^ 十種古逸書』、PDFファイルの189頁。
  5. ^ 『十種古逸書』、PDFファイルの204頁。
  6. ^ 小竹武夫訳『漢書』3巻591頁訳注98。藤田勝久『史記秦漢史の研究』、209頁。
  7. ^ 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、205 - 209頁。茆泮林『十種古逸書』、PDFファイルの189 - 207頁。
  8. ^ 班固『漢書』司馬遷伝第32。ちくま学芸文庫『漢書』第5巻521頁。
  9. ^ 班固『漢書』司馬遷伝第32、ちくま学芸文庫『漢書』第5巻505頁。
  10. ^ 『十種古逸書』、PDFファイルの191頁。
  11. ^ 福井重雅『陸賈「新語」の研究』、40頁。

参考文献

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