楡 (橘型駆逐艦)
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楡 | |
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基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 橘型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1944年度(昭和19年度)計画 |
起工 | 1944年8月14日 |
進水 | 1944年11月25日 |
竣工 | 1945年1月31日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1948年、解体 |
要目(計画値) | |
基準排水量 | 1,262 トン |
公試排水量 | 1,530 トン |
全長 | 100.00 m |
最大幅 | 9.35 m |
吃水 | 3.30 m |
主缶 | ロ号艦本式ボイラー×2基 |
主機 | 艦本式タービン×2基 |
出力 | 19,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 27.8 ノット |
燃料 | 重油 370 t |
航続距離 | 3,500 海里/18ノット |
乗員 | 211 名 / 279 名[1] |
兵装 |
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レーダー | 22号電探×1基 |
ソナー |
四式水中聴音機×1基 三式探信儀一型×1基 |
楡(にれ)は日本海軍の駆逐艦。仮称4809号艦、橘型(改松型)駆逐艦2番艦として舞鶴海軍工廠で建造された。艦名はニレ科の樹木の総称のこと。艦名としては樅型駆逐艦の3番艦「楡」に続いて2代目。
艦歴
[編集]竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。
4月25日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少将)第五十二駆逐隊に編入された[2]。
6月22日、呉でB-29の爆撃を受け損傷し、戦死25名を出す。爆弾は缶室に直撃して機械室にも被害を与え、17ノットの速力しか出なくなった[3]。このため、7月15日付で第五十二駆逐隊から外されて特殊警備艦となり、駆逐艦長の下田隆夫少佐以下全乗員は「樺」に移動した。艦は呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入されたが、若干の保安員以外は乗員なしのまま終戦を迎えた。10月15日除籍。
戦後は呉で浮桟橋として使用されていたが、1948年(昭和23年)1月から播磨造船呉ドック(旧呉海軍工廠)で解体に着手、4月20日に解体は完了した。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』369頁による。
艤装員長
[編集]- 下田隆夫 少佐 1944年12月25日 -
駆逐艦長
[編集]- 下田隆夫 少佐 1945年1月31日 - (7月15日退艦。「樺」へ)
脚注
[編集]- ^ #S1906第11水戦日誌 (6), p.8
- ^ #S1906第11水戦日誌 (7), p.22
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 645.
参考文献
[編集]- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。ISBN 978-4809901089。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』。JACAR:C08030127900。
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。JACAR:C08030128000。