榊原職直
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正14年(1586年) |
死没 | 慶安元年9月1日(1648年10月17日) |
改名 | 太郎八→花房職則→榊原職則 |
別名 | 半平、小源太、左衛門佐(通称)、日幸 |
戒名 | 通性院殿前従五位下道空日華居士 |
墓所 | 谷中霊園天王寺墓地 |
官位 | 従五位下飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府長崎奉行 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
氏族 | 花房氏 |
父母 |
父:花房職之 母:額田三河守の娘 養父:榊原康政 |
兄弟 | 花房職則、榊原職直 |
子 | 職信、職員、娘(石河勝政[1]室)、女(戸川勝安[2]室)、女(丹羽正長[3]室)、女(船越正景[4]室)。 |
榊原 職直(さかきばら もとなお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。
生涯
[編集]天正14年(1586年)、宇喜多氏の家臣・花房職之(職秀)の次男として誕生。母は同じく宇喜多家臣・額田三河守の娘。
早くに出家し池上本門寺の僧となっていたが、徳川家康に還俗を命じられ慶長元年(1596年)に家康に拝謁し、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長4年(1599年)に徳川氏の重臣・榊原康政の養子となり、以後「榊原職直」と名乗った。これは、康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される。
慶長19年(1614年)の大坂の陣には、実父の職之・実兄の職則と共に徳川方として出陣した。職直はのちに兄の職則により、花房家8220石の内から1000石の分与を受け、旗本として独立して取り立てられた。寛永2年(1625年)、1800石を知行し御徒頭となる。寛永9年(1632年)には御書院番頭となり、従五位下飛騨守となった。寛永10年(1633年)、2500石に加増。
寛永11年(1634年)に長崎奉行に就任。江戸幕府が推進していたキリシタンの弾圧を更に推し進めた。長崎奉行時代に行われた幕府の政策として、唐貿易の許可を長崎のみと限定、日本人の外国渡航の禁止、長崎近在の混血児287人を海外に追放、ポルトガル人を出島に移す、などがある。一方、諏訪神社の祭礼(現在の長崎くんち)を始めるなど長崎町人の懐柔を勧めた。
寛永15年(1638年)の島原の乱において職直は、鍋島勝茂の軍監を勤めていた。5月、鍋島軍が抜け駆けを行った際、職直の子の職信が同時に抜け駆けを行った。職信は城内に突入する戦功を挙げたが、これは軍令違反であるため、親子はただちに咎を受けた。同年6月29日に長崎奉行を免職、更に閉門の処分を受けてしまう。その後許され、寛永19年(1642年)には御先鉄砲頭、正保3年(1646年)に近江国水口城(水口御茶屋)城番を務めた。
慶安元年(1648年)死去した。墓所は、東京上野の谷中天王寺墓地。「通性院殿前従五位下道空日華居士」。
子孫は幕府旗本として存続した。幕末の剣豪の榊原鍵吉や東京女子医科大学の教授の榊原仟は、職直の後裔である[5]。幕末の榊原本家当主榊原政敬の婿養子となり、榊原本家15代目・子爵家を相続した榊原政和はこの旗本家の出身であり、以降の榊原氏本家はこの血統となった。