コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

横浜仏語伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横浜語学所から転送)

横濱佛蘭西語傳習所(よこはま ふらんすご でんしゅうじょ)は、江戸時代末期にかつて存在した日本の語学学校である。通称横浜仏語伝習所(よこはまふつごでんしゅうじょ)。江戸幕府が横浜に開校した。

略歴・概要

[編集]

幕府は、フランス軍軍事顧問団の指導による幕府陸軍の強化を目指した。それに先立ち、フランス語を理解できる士官候補生を養成するために、元治2年3月6日(1865年4月1日)、開成所とは別に横浜仏語伝習所が設立された[1]。場所は武蔵国久良岐郡横浜町弁天町(現在の神奈川県横浜市中区本町6丁目)、弁天池の北隣であった。

栗本鋤雲小栗忠順が幕府から設立に関わり、設立後は、所長に外国奉行川勝広道が就任、フランス側からの指名で塩田三郎が補佐した[1]。フランス側からは、全権公使レオン・ロッシュが責任者として立ち、その秘書で通訳のメルメ・カションが事実上の校長であり、カリキュラム編成と講義を受け持った[1]慶応2年(1866年)2月頃(慶応2年初頭)からは、シャルル・ビュランら公使館から人員が借り出された[1]

カリキュラムは、フランス語だけではなく地理学歴史学数学幾何学・英語・馬術で、半年を1学期とし、午前は8時から正午までの4時間と、午後は16時から18時までの2時間を授業時間とし、日曜日・祝日は休業、水曜日は午前のみの半ドンであった。

第1回「得業式」は慶応2年10月(1866年11月)に行なわれた。同年11月18日(12月24日)、伝習生は旗本を対象に募集したが、翌慶応3年1月3日(1867年2月7日)には藩士にも門戸を開いた[1]

幕府が倒れ、幕府と運命を共にした形でロッシュが本国に召喚され、新公使マクシム・ウトレーフランス語版が着任するに及んで、横浜仏語伝習所は一旦は自然廃校となった。しかし、明治2年(1869年)に明治新政府はこの学校を接収し、横浜語学所として再興することを決定した。そして、川勝広道を学長に再任し、諸藩の志願者35名に入学を許し、ビュランも引き続き教官を務めた[2]。明治3年には、大阪兵学寮に移設され、陸軍士官学校へと続くことになる。

主な卒業生

[編集]

第1期

[編集]

第2期

[編集]

関連項目

[編集]

[編集]
  1. ^ a b c d e #外部リンク欄の東京大学総合研究博物館サイト内の「特別展「維新とフランス - 日仏学術交流の黎明」展」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。
  2. ^ 高橋邦太郎著、「日仏の交流―友好三百八十年」p207、三修社(1982年)、ISBN: 978-4384037180
  3. ^ 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p142-143「スキャンダル三羽烏」
  4. ^ 田中弘義『和仏辞書』田中弘義、1888年12月https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001692180-002015年11月24日閲覧 
  5. ^ 織田信義、田中旭、今井孝治『和仏辞書』丸善、1899年6月https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001546806-002015年11月24日閲覧 
  6. ^ 稲垣喜多造コトバンク
  7. ^ 倉沢剛『幕末教育史の研究 1 直轄学校政策』吉川弘文館、711頁。 
  8. ^ 成澤良一『オーボエが日本にやってきた!-幕末から現代へ、管楽器の現場から見える西洋音楽受容史-』第2版2021年、デザインエッグ社、2017年、22-29頁。 

外部リンク

[編集]