コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小栗忠順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小栗 忠順
村上照賢画小栗忠順肖像
時代 江戸時代末期
生誕 文政10年6月23日1827年7月16日[1]
死没 慶応4年4月6日1868年5月27日
改名 剛太郎(幼名)→忠順
別名 又一(通称
戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士[2]
墓所 東善寺雑司ヶ谷霊園普門院[3]
官位 従五位下豊後守上野介
幕府 江戸幕府西の丸書院番使番目付外国奉行寄合席小姓組番頭勘定奉行南町奉行、歩兵奉行、講武所御用取扱、寄合席、陸軍奉行並、勤仕並寄合、軍艦奉行寄合海軍奉行並、陸軍奉行並、勤仕並寄合
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 三河小栗氏
父母 父:小栗忠高
母:小栗くに子
正室:道子
国子
養子:鉞子忠道
テンプレートを表示

小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日1827年7月16日〉 - 慶応4年4月6日1868年5月27日〉)は、幕末期日本武士幕臣)。

通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任[4]文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行江戸町奉行外国奉行を歴任した。

主な業績・人物

[編集]

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首[5][6]。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[7]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[8]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記した[9]

生涯

[編集]

家督相続前

[編集]

文政10年(1827年)、禄高2,500[注釈 1]旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷[注釈 2]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[10]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳のころには自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。

8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[11]。武術については、剣術島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計に、柔術山鹿流兵学(19歳から4年間)を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事している[12][13]天保11年(1840年)ごろ、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける[1]

天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている。嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。このころから外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[14]

安政2年(1855年)、父が医師の誤診により死去し[15]、家督を相続する[16]。安政6年、小栗豊後守を名乗る。

アメリカ渡航

[編集]
左から村垣範正新見正興、小栗忠順 1860年
ワシントン海軍工廠での使節団[17]:正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)

安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する[注釈 3]。2か月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはcensor(ケンソル)である」と主張して切り抜けたという。「censor」という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。

フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らなかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った[18]。また、訪米中にはブキャナン大統領に謁見している[19]

その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。

内政・外交に携わる

[編集]

文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に

  • 対馬を直轄領とすること。
  • 今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
  • 国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。

などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した[注釈 4][20]

文久2年(1862年)、勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更する。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドル[注釈 5]に上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができてフランス中心の招聘となった。

文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14代将軍徳川家茂はこれを承認し、11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。見分の結果、鉄鉱石埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した[21]。ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865年)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始[注釈 6]。費用は4年継続で総額240万ドル[23]で、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた[24][25]。横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く[26]、建設地を横須賀にすることへの反対論もあった[27]が、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである[28]

小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌雇用規則残業手当社内教育洋式簿記月給制など、経営学人事労務管理の基礎が日本に導入された[29]。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った[30]。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い[31]

小栗は陸軍の力も増強するため、小銃大砲弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した[注釈 7][32][33]

文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した[34]。また、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した[35]

小栗はさらなる軍事力強化のため、幕府陸軍フランス軍人に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った[36]

経済面では、慶応2年(1866年)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした[37]。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった[38]

8月9日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので[39]、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった[40]

大政奉還

[編集]

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。

慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚大鳥圭介水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある[41][42]。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたが[43]、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採った。

ただし、一方で慶喜は和戦両論の構えを取っており、横浜の警備体制を増強して、箱根関碓氷関に目付を派遣し、官軍を迎え撃つ体制を強化している。小栗の作戦を却下した理由としては、その時点での慶喜はあくまで武備恭順の姿勢であり、家臣団が小栗の意見に引きずられて武備恭順の域から逸脱するのを防ぐためだったと推測されている。慶喜としては抗戦の意思を捨てる気はないものの、薩長の官軍化に困惑する味方を安心させる為、朝廷に対して恭順の意思を見せる必要があり、明確に敵対の意思を示す小栗の作戦は受け入れることが出来なかったとされる[注釈 8]。なお、幕臣のほとんどは主戦論を唱えていたが、小栗の作戦以外にも「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で官軍を食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など様々な作戦が提案される議論百出の状態で、一つの意見に集約できる状態ではなかったという[44]

小栗の墓所・東善寺(群馬県高崎市

慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇、若年寄稲葉重正から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると[45][46]、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた[47]。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した[48]

2月28日(3月21日)5時(8時)江戸を一行は出る。途中、大宮の普門院に参拝。夕七半(17時)桶川宿に泊まる。2月29日(3月22日)桶川宿を六半時(7時)出発、吹上で昼飯、夕八半時(15時)深谷宿に泊まる。2月30日(3月23日)朝六半時(7時)出発、新町で昼飯、夕七時(16時)高崎宿に泊まる。

3月1日(3月24日)朝五時(8時)高崎を出発、室田(高崎市)で昼飯、夕七時(16時)権田村(群馬県高崎市倉渕町権田))東善寺に到着。3月4日(3月27日)2千人とも言われる世直し勢が寺を包囲した。たが戦術に優る小栗は、鉄砲などで退治した。しかし、これが大きな反響を呼び、小栗は多数の武器を所有しているという噂となって世間に広まった。3月8日(3月31日)総督府を出迎えるため高崎藩主と小幡藩主は常磐町(高崎市)まで出迎えたが、小栗は石上寺の本営に出頭して勤王の意を表面しなかったことが反逆の嫌疑を受けることになった。

当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており[49]、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

最期

[編集]

慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩安中藩吉井藩兵により東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された[注釈 9][注釈 10]。享年42。

死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという[53]。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。

残された家族

[編集]

小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男の忠道を養子に迎えていたが、忠道も翌日に高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、妻の道子、養女の鉞子を家臣および村民からなる従者と共に、かねてから面識があった会津藩横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった[54]。その後、一行は小栗忠高がかつて懇意にしていた新潟の紙問屋・藤井忠太郎(市島謙吉の親戚)を頼ったのち[55]、閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより道子らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された[56]

一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた[57][58]。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られた。大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した[59]

人物

[編集]
雑司ヶ谷霊園にある小栗忠順の墓
  • 小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている[60]
  • 小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている[61]。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる[62]
  • 小栗は鉄砲やの名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶から褒美を賜っている[63]。また、小栗所用と伝わる文久2年(1861年)8月制作の《本小札五枚胴紺絲威具足》が、東京富士美術館に所蔵されている[64]
  • 小栗が窪田助太郎清音から山鹿流兵学を学んでいた同じ時期に、名刀工・源清麿が窪田家の屋敷に住み込みで修業していた。小栗の製鉄所建設の原点は、清麿の作刀を10代から20代の多感な時期に生で見て、鉄の基礎知識を得たことだったのではとの新説が、小栗上野介顕彰会の機関誌に発表された。小栗の「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。」との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きいと分析している[12][13]
  • 2005年に『よこすか開国祭』にて、自身の玄孫である漫画家小栗かずまたによってデザインされたキャラクター「オグリン」のモチーフとなった[65]
  • 道の駅くらぶち小栗の里」に名を残す[66]

家族・親族

[編集]
  • 先祖:小栗忠政
  • 祖父:中川忠英(勘定奉行)
  • 外祖父:小栗忠清
  • 父:小栗忠高
  • 母:くに子(小栗忠清女)[67]
  • 妻:道子(建部政醇女)
  • 養女:小栗鉞子(よきこ、忠清の実子日下数馬の娘で従妹にあたる)
  • 養子:小栗忠道(鉞子の許嫁)
  • 娘:国子(小栗貞雄妻)
  • 従姉妹:大隈綾子大隈重信妻)
  • 玄孫:小栗かずまた(本名又一郎)…漫画家。
  • 遠戚:武蔵…格闘家。小栗の妻、道子と蜷川新(武蔵の曽祖父)の母、はつ子が姉妹。武蔵の父は今でも、小栗を無実の罪で処刑に追いやったとして勝海舟を憎んでいるという。

系図

[編集]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中川忠英
 
 
 
小栗忠清10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三枝七四郎
 
小栗忠高11
 
くに子
 
日下数馬
 
建部政醇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大隈重信
 
大隈綾子三枝守富矢野光儀小栗忠順12
 
道子
 
 
 
 
 
駒井朝温はつ子
 
蜷川親賢建部政和土井利教建部揆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
矢野龍渓小栗貞雄14
 
小栗国子
 
小栗鉞子
 
小栗忠道小栗忠祥13蜷川新
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小栗又一15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小栗忠人16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小栗又一郎17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

評価

[編集]
  • 大鳥圭介 「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった」[68]
  • 勝海舟
    • 「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」[69]
    • 「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」[70]
  • 西郷隆盛 「偉大なる権謀家」[69]
  • 大村益次郎 「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」[69]
  • 福沢諭吉 「鞠躬尽瘁の人」[71]
  • 大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った[72][73]。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった[74]。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。
  • 明治45年(1912年)7月[75]東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。
  • 三野村利左衛門
    • 「もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ」[69]
    • 三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた[76]。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである[77]。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。
  • 斉藤正雄 「容貌柔和、沈黙にしてしかも大胆であり、米国よりは、経済財政の原書を買い来れる程の賢明なる人物であった」[69]
  • 林田藩士 「小栗上野介は、年僅かに十四歳のころであったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待つ堂々としてすでに巨人の風あり。未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」[69]
  • 森山休平 「小栗上野介の登城は、普通人の如くに輿に依らずして、常に乗馬であった。しかして小栗上野介の登城せらるる折には、縦令家の中に潜みつつあっても『これは小栗殿の登城也』という事が、その馬の足音にてよく判断し得られた。蓋し小栗上野介は、必ず駿馬に跨り行くを例とし、その馬蹄の響きが、他の馬のそれとは全く違っていたからである」[69]
  • 『白石喜太郎憶記』によると、渋沢栄一が渡欧に際して「其間の事に付いて彼是心配致して居りますが、最も心にかかるのは会計の事で御座います」と相談すると、小栗は「足下は五年も後のことを心配する柄でもあるまい。第一足下は討幕を企てた程の男ではないか」などと戯談を言いだし、渋沢をしどろもどろにさせた[78]

江戸幕府役職履歴

[編集]

※日付=旧暦

※原典[79]

  • 天保14年(1843年)3月22日 - 江戸城に初登城。徳川家慶に御目見え。
  • 弘化4年(1847年)4月16日 - 小栗忠高嫡子の身分のまま、西の丸書院番に登用され、役料300石を支給される。
  • 嘉永6年(1853年) - 進物番出役に登用される。徳川家定に近侍する。
  • 嘉永7年(1854年) - 外国船に対する警戒のため、浜御殿の警備を担当する。
  • 安政2年(1855年
    • 7月28日 - 父、忠高が急死。
    • 10月22日 - 家督を相続し、又一を称する。
  • 安政4年(1857年
    • 1月11日 - 書院番(九番組)大岡豊後守清謙組進物番出役から使番に異動。[80]
    • 12月16日 - 布衣を許される。
  • 安政6年(1859年
    • 9月12日 - 使番から目付に異動。翌日、日米修好通商条約批准のため使節として渡米を命じられる。
    • 11月21日 - 従五位下・豊後守に叙任。
  • 万延元年(1860年)11月8日 - 目付から外国奉行に異動。
  • 文久元年(1861年
  • 文久2年(1862年
    • 3月9日 - 小姓組番頭(二番組)となる。[81]
    • 6月5日 - 小姓組番頭から勘定奉行・勝手方に異動。
    • 閏8月4日 - 松平出雲守の代理として、朝鮮人来聘御用を拝命。
    • 閏8月25日 - 勘定奉行から江戸南町奉行に異動。
    • 閏8月27日 - 勘定奉行を兼帯。
    • 12月1日 - 南町奉行から歩兵奉行に異動し、勘定奉行・勝手方を兼帯。
    • 12月10日 - 講武所御用取扱兼帯。
  • 文久3年(1863年
    • 4月23日 - 勘定奉行・勝手方・歩兵奉行・講武所御用取扱を辞し、寄合席。
    • 7月10日 - 陸軍奉行並となる。
    • 7月29日 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合となる。※勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任。
  • 元治元年(1864年
    • 8月13日 - 勘定奉行・勝手方となる。
    • 12月18日 - 軍艦奉行に異動。
  • 元治2年(1865年
    • 1月 - 横須賀製鉄所御用掛に栗本瀬兵衛らと共に任ぜられる。29日には、フランスと製鉄所建設の約定を交わす。
    • 2月21日 - 軍艦奉行を辞し、寄合席。
    • 改元して慶応元年5月4日 - 勘定奉行・勝手方となる。
  • 慶応2年(1866年)4月、兵庫商社設立の建議書を幕府に提出。関税税率改定交渉に主要人物として参加。
    • 6月5日、兵庫商社を設立し、役員を任命する。
    • 8月11日 - 海軍奉行並を兼帯。
  • 慶応3年(1867年)5月武蔵国豊島郡滝野川村に火薬製造所を設立。
    • 9月26日、小栗が主張していた、兵賦制度が布告され、組合銃隊が廃止される。
    • 12月28日 - 陸軍奉行並を兼帯[82]
  • 慶応4年(1868年)1月15日 - 陸軍奉行並、勘定奉行を御役御免、勤仕並寄合と就る。

評伝

[編集]

書籍

[編集]
  • 神長倉真民『仏蘭西公使ロセスと小栗上野介』ダイヤモンド社 1935年 (復刻・マツノ書店、2015年)
  • 坂本藤良 『小栗上野介の生涯―「兵庫商社」を創った最後の幕臣 』 講談社 1987年 ISBN 4-06-203234-1
  • 司馬遼太郎『明治という国家』日本放送出版協会、1989年。ISBN 4-14-008668-8  / 新版・NHKブックス(新装版2018年)ISBN 978-4-14-091249-2
  • 柴田錬三郎『生きざま』集英社文庫 1983年 ISBN 4-08-750698-3
  • 高橋敏 『小栗上野介忠順と幕末維新 「小栗日記」を読む』 岩波書店 2013年 ISBN 978-4-00-025888-3
  • 福地源一郎『幕末政治家』 岩波文庫 2003年 ISBN 4-00-331861-7
  • 松平定知 『幕末維新を「本当に」動かした10人』小学館101新書 2010年 ISBN 978-4-09-825070-7
  • 村上泰賢 『小栗上野介』平凡社新書 2010年 ISBN 978-4-582-85561-6
  • 木立順一 『日本偉人伝』メディアポート 2014年 ISBN 978-4865580150
  • マイケル・ワート『明治維新の敗者たちー小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳 みすず書房 2019年 ISBN 978-4-622-08811-0

小栗忠順が登場する作品

[編集]

小説

[編集]

楽曲

[編集]

映画

[編集]

テレビドラマ

[編集]

落語

[編集]

漫画

[編集]

テレビ番組

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 旧高旧領取調帳データベースによると、小栗上野介名義の旧領は約3,334石。
  2. ^ 現在の東京YWCA会館。
  3. ^ この時、ポーハタン号の随行艦である咸臨丸には、軍艦奉行木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗っており、木村の従者には福澤諭吉がいた。
  4. ^ しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。
  5. ^ 1メキシコドル=0.75両。一両の価値は一文と一両の価値参照。
  6. ^ 全施設が完成したのは1871年だが、江戸開城直前には第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた[22]
  7. ^ 特に四斤山砲スプリングフィールド銃が主たる対象であった。
  8. ^ 慶喜が抗戦の意思を捨てて、絶対恭順の姿勢を見せるのは2月以降である。
  9. ^ なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している[50]
  10. ^ 小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある[51][52]
  11. ^ ただし、本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。

出典

[編集]
  1. ^ a b 村上 265頁
  2. ^ 早川 13頁
  3. ^ 普門院
  4. ^ 小川 696頁
  5. ^ 村上 179-188頁
  6. ^ https://www.archives.pref.gunma.jp/course/course-1/
  7. ^ 児島 224頁 但し戦備のためではない。
  8. ^ 川口 89頁-158頁
  9. ^ 司馬 1989, p. 26.
  10. ^ 小野寺 151頁
  11. ^ 市川、村上 56頁、村上265頁
  12. ^ a b 上毛新聞2017年(平成29年)12月13日社会面「幕臣小栗上野介に新説 山鹿流兵学から影響」
  13. ^ a b 小栗上野介顕彰会機関誌たつなみ第42号(平成29年・2017)窪田清音の学問と門弟小栗上野介の行動
  14. ^ 市川、村上 58頁
  15. ^ 上州路 16頁
  16. ^ 小栗上野介日記及び家計簿~群馬県生涯学習センター
  17. ^ 尾佐竹 幕末遣外使節物語 73頁
  18. ^ 「幕末開明の人・小栗上野介 米国から持ち帰ったねじ~ファスニングジャーナル
  19. ^ リスク対策.com再説:幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順(2021年11月19日閲覧)
  20. ^ 横山 109-125頁、田辺1、177-185頁
  21. ^ 大松、109頁
  22. ^ 武田 119頁
  23. ^ 高村 34-35頁
  24. ^ 瀧澤ほか 258頁
  25. ^ 田辺2、237-238頁
  26. ^ 坂本 311-312頁、344頁。
  27. ^ 坂本、335-357頁
  28. ^ 小野寺 127頁
  29. ^ 平間 48-51頁
  30. ^ 坂本 347-372頁
  31. ^ 山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照
  32. ^ 市指定第49号 幕末の洋式小銃”. 西東京市. 2017年3月6日閲覧。
  33. ^  保谷徹 幕府の米国式施条銃生産について  東京大学史料編纂所研究紀要第11号 2001.3 36-52頁
  34. ^ 大松 69-82頁
  35. ^ 武田 127-129頁
  36. ^ 石井 増訂 明治維新の国際的環境 710-713頁 洞410-412頁
  37. ^ 海を越えた日本人名辞典 197頁
  38. ^ 坂本 413-425頁など
  39. ^ 村上 106-121頁
  40. ^ 吉田 217頁
  41. ^ 木村知治、土方伯 398-399頁
  42. ^ 森 192頁
  43. ^ 児島 207-211頁
  44. ^ 安藤優一郎 「幕末維新」の不都合な真実 119-124頁
  45. ^ 小栗日記 69頁
  46. ^ 高橋敏 125頁
  47. ^ 三野村 52頁、倉渕村 239-240頁
  48. ^ 倉渕村 240頁、加来 104頁、早川15-16頁
  49. ^ 村上 176頁。権田村・小高用水
  50. ^ 片山 121頁
  51. ^ 山田 184頁
  52. ^ 畠山 247-248頁
  53. ^ 「小栗上野介、殺害直後の古文書発見」2007年3月~東京新聞
  54. ^ 村上、190-206頁
  55. ^ 小栗上野介の子孫『大隈侯一言一行』市島謙吉、 (早稲田大学出版部, 1922)
  56. ^ 村上、209頁
  57. ^ 村松、富田、246-248頁
  58. ^ 村上、211、218-219頁
  59. ^ [1][2]
  60. ^ 尾佐竹猛 112頁[注釈 11]
  61. ^ 小野寺 153頁。
  62. ^ 広辞苑第六版 「商社」1379頁。
  63. ^ 村上 266頁。
  64. ^ 東京富士美術館公式サイト収蔵品
  65. ^ ペリリン&オグリン公式HP(2013年8月15日時点のアーカイブ
  66. ^ 道の駅 くらぶち小栗の里の地図”. Mapion. 2018年12月12日閲覧。
  67. ^ 家系図~近現代・系図ワールド
  68. ^ 森 193頁。
  69. ^ a b c d e f g 『維新前後の政争と小栗上野の死 蜷川新 著』
  70. ^ 「海舟全集 第十巻」
  71. ^ 「青天を衝け」でもっと見たかった…小栗忠順が日本近代化に果たしたすごい功績(2021年11月14日閲覧)
  72. ^ 広瀬 213頁、山本 108頁
  73. ^ [3]
  74. ^ 小川 1163頁
  75. ^ 小板橋 245頁
  76. ^ 三野村 9頁。
  77. ^ 三野村 16-17頁。
  78. ^ 渋沢栄一を慌てさせた情報通で、勝海舟の“ライバル” ──幕吏でありながら確かな商才で一目置かれた「知られざる偉人」小栗忠順(2021年11月9日閲覧)
  79. ^ 柳営補任、小川 695-696頁より作成。
  80. ^ 柳営補任 三巻 229頁
  81. ^ 柳営補任 一巻 294頁
  82. ^ 小川 688-689頁
  83. ^ 小栗日記 72-73頁

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
小栗忠高
三河小栗家
第12代:1855年 - 1868年
次代
小栗忠祥