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林誠太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はやし せいたろう
林 誠太郎
本名 貝本 清 (かいもと きよし)
生年月日 (1896-11-03) 1896年11月3日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1900年代 - 1939年
主な作品
親馬子馬
仇討地獄
弧狗狸物語
首斬浅右衛門 江戸愛欲篇
松平外記
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林 誠太郎(はやし せいたろう、1896年11月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名貝本 清(かいもと きよし)[1]

人物・来歴

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1896年明治29年)11月3日に生まれる[1]。幼少時から舞台に立ち、経験を積む[1]

関東大震災後で東京からの俳優やスタッフが京都西宮の撮影所に流れ込んだ1924年(大正13年)、林は、牧野省三が所長を務める「等持院撮影所」に入り、同年6月25日に同日公開された2作、二川文太郎監督の『恋の猟人』、後藤秋声監督の『関守の情』に出演して、満27歳で映画界にデビューしている[1][2][5]。当時の同撮影所は、牧野が経営するマキノ映画製作所の「マキノ等持院撮影所」であったが、同月には東亜キネマを買収し、「東亜キネマ等持院撮影所」となった[2][5]。間もなく同撮影所内の反東亜キネマ派の不満を解消するために「東亜マキノ等持院撮影所」と呼称を変えたが[5]、この時期に、阪東妻三郎主演、沼田紅緑監督の『清水次郎長』に出演して黒駒勝蔵を演じている[1][2]

1925年(大正14年)1月には、帝国キネマ演芸に移籍し、同社の時代劇を担う「小坂撮影所」の重要な脇役俳優とみなされるようになり、1927年(昭和2年)に公開された佐藤樹一路監督の『弧狗狸物語』、1929年(昭和4年)5月15日に公開された矢内政治監督の『親馬子馬』では主演を果たしている[1][2]。同社の撮影所は、小坂に代って建設された「長瀬撮影所」が火災に遭って全焼する等の変遷を経て、もともと阪東妻三郎プロダクションの撮影所として建てられたものに入居して「太秦撮影所」としていたが、同社の経営が悪化し、1931年(昭和6年)8月28日、新興キネマに改組されるが、このとき林は、この新会社に継続入社する[6]

1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博トーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、林は、翌1936年(昭和11年)に第二期入社で参加する[1][2][7]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散、葉山純之輔大内弘ら大半は新興キネマへ、マキノ正博、澤村國太郎光岡龍三郎、同期の田村邦男團徳麿志村喬水原洋一大倉千代子大久保清子らは日活京都撮影所に移籍して行くなか、林は、松竹下加茂撮影所に移籍したようであるが、翌1938年(昭和13年)7月28日に公開された星哲六監督の『紅だすき一刀流』以降、満46歳以降の出演記録が見当たらない[1][2][7]。マキノトーキーが、最後に製作した牧陶六(マキノ正博)監督の『遊侠太平記』にも出演[4]、同作は同年8月5日に、解散後にマキノが入社した日活が「日活京都撮影所作品」として公開している[8]。その後、時代は第二次世界大戦に突入し、消息は不明である。没年不詳

日本映画データベースにおいて、同時期に活動した俳優の林誠之助との混同がみられる[2][3][4][9]

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。公開日の右側には役名[2][3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

東亜キネマ

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特筆以外すべて製作東亜キネマ等持院撮影所、配給東亜キネマである[2][3]。すべてサイレント映画である[2][3]。「マキノ等持院撮影所」はマキノ映画製作所が開設した撮影所であり、東亜キネマが同社を買収して「東亜キネマ等持院撮影所」となり、一時、所内の反東亜キネマ派の不満解消のため「東亜マキノ等持院撮影所」と呼称した[5]

帝国キネマ演芸

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特筆以外すべて製作・配給は帝国キネマ演芸である[2][3]。当初時代劇の撮影所として「小坂撮影所」が稼働し、一時同撮影所が閉鎖されて東邦映画が設立されたがまもなく元に戻り、やがて「長瀬撮影所」に移行、同撮影所焼失後は「太秦撮影所」に移った。

製作 小坂撮影所
製作 長瀬撮影所
製作 太秦撮影所

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は新興キネマである[2][3]。同社は当初、「帝国キネマ演芸太秦撮影所」(現在の東映東京撮影所)を改名して、唯一の撮影所として稼働していたが、1935年(昭和10年)に「東京撮影所」(現在の東映東京撮影所)を設置して現代劇を分離して以来、「京都撮影所」と名称を変更した。

マキノトーキー製作所

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特筆以外すべて製作・配給はマキノトーキー製作所である[2][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o キネマ旬報社[1979], p.467.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 林誠太郎日本映画データベース、2012年12月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 林誠太郎、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月11日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 林誠太郎日活データベース、2012年12月11日閲覧。
  5. ^ a b c d 等持院撮影所立命館大学、2012年12月11日閲覧。
  6. ^ わが町八丁堀 歴年表中央区八丁堀二丁目東町会、2012年12月11日閲覧。
  7. ^ a b マキノ[1977]、p.338-374.
  8. ^ 遊侠太平記、日本映画データベース、2012年12月11日閲覧。
  9. ^ 林誠之助 - 日本映画データベース、2012年12月11日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i 林誠太郎、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月11日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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