川口宗恒
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生誕 | 寛永7年(1630年) |
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死没 | 宝永元年5月8日(1704年6月9日) |
別名 | 辰千代、伊織、源左衛門(通称) |
墓所 | 浅草・長敬寺 |
官位 | 従五位下摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 書院番→徒頭→長崎奉行→江戸北町奉行 |
氏族 | 川口氏 |
父母 | 父:川口宗次、母:朽木宣綱の娘 |
兄弟 | 川口宗恒、川口宗長、川口宗正、妹(久志本常倫室)、妹(服部信成室) |
妻 | 菅谷範重の娘 |
子 | 川口宗直、菅谷政房、娘(森長重室→宅間憲良室) |
川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は川口宗次、母は朽木宣綱の娘。妻は菅谷範重の娘。妹に服部信成室。子に宗直、菅谷政房(範重の子の菅谷政照養子)。
寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる[1]。
延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった[2]。
貞享3年(1686年)7月10日、貿易統制に対する褒章として[3]下総国印旛郡・相馬郡で500石を加増され、計2700石を領する。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下摂津守に叙任し、元禄6年(1693年)12月1日江戸町奉行(北町)となる。元禄11年(1698年)12月1日に職を辞し、旗本寄合席に列した。なお、領地は下総国香取郡阿玉台村、須賀山村、印旛郡吉田村、松虫村、吉高村、青菅村であった。元禄12年(1699年)12月5日に致仕し、宝永元年(1704年)5月8日に75歳で死去[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木康子『長崎奉行―等身大の官僚群像』(筑摩書房、2012年)