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川口宗恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川口 宗恒
生誕 寛永7年(1630年
死没 宝永元年5月8日1704年6月9日
別名 辰千代、伊織、源左衛門(通称)
墓所 浅草・長敬寺
官位 従五位下摂津守
幕府 江戸幕府 書院番徒頭長崎奉行江戸北町奉行
氏族 川口氏
父母 父:川口宗次、母:朽木宣綱の娘
兄弟 川口宗恒川口宗長川口宗正、妹(久志本常倫室)、妹(服部信成室)
菅谷範重の娘
川口宗直菅谷政房、娘(森長重室→宅間憲良室)
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川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は川口宗次、母は朽木宣綱の娘。妻は菅谷範重の娘。妹に服部信成室。子に宗直菅谷政房(範重の子の菅谷政照養子)。

寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる[1]

延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった[2]

貞享3年(1686年)7月10日、貿易統制に対する褒章として[3]下総国印旛郡・相馬郡で500石を加増され、計2700石を領する。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下摂津守に叙任し、元禄6年(1693年)12月1日江戸町奉行(北町)となる。元禄11年(1698年)12月1日に職を辞し、旗本寄合席に列した。なお、領地は下総国香取郡阿玉台村、須賀山村、印旛郡吉田村、松虫村、吉高村、青菅村であった。元禄12年(1699年)12月5日に致仕し、宝永元年(1704年)5月8日に75歳で死去[1]

脚注

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  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第五百七十四
  2. ^ 『長崎奉行―等身大の官僚群像』87頁
  3. ^ 『長崎奉行―等身大の官僚群像』93頁

参考文献

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  • 鈴木康子『長崎奉行―等身大の官僚群像』(筑摩書房、2012年)

外部リンク

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長崎奉行としての川口宗恒の紹介