佐々木顕発
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化3年(1806年) |
死没 | 明治9年(1876年)12月31日 |
別名 | 通称:脩輔、蘭斎 |
墓所 | 谷中霊園 |
官位 | 従五位下信濃守、飛騨守 |
幕府 |
江戸幕府支配勘定→評定所留役→勘定組頭 →勘定吟味役→奈良奉行→大坂東町奉行→ 小普請奉行→勘定奉行→徒頭→作事奉行→ 北町奉行→西丸留守居→南町奉行 →外国奉行 |
氏族 | 佐々木氏 |
父母 | 父:河野周助 |
佐々木 顕発(ささき あきのぶ[1])は、江戸時代末期の旗本。一介の旗本家来から御家人、旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した人物として知られる。
経歴
[編集]飛騨郡代所の地役人(元締手代)河野周助の子として生まれた。後に江戸に出て、幕府奥右筆田中龍之助良顕に侍(武家奉公人)として仕えた。その後田中の援助により御徒の家に養子入りした。文政9年(1826年)御徒に抱入れられ御家人となった(職禄70俵5人扶持)。
- 天保2年(1831年)、支配勘定。
- 天保5年(1834年)、評定所留役。旗本となる。
- 天保13年(1842年)、勘定組頭。永々御目見以上となる。
- 天保14年(1843年)、勘定吟味役(布衣)。家禄100俵に。
- 嘉永4年(1851年)、奈良奉行。従五位下信濃守叙任。家禄200俵に。
- 嘉永5年(1852年)、大坂東町奉行(10月8日)
- 安政4年(1857年)、小普請奉行(2月24日)
- 安政5年(1858年)、勘定奉行(5月24日)
- 安政6年(1859年)、免職、差控(2月2日)。反井伊直弼派であったため。
- 文久2年(1862年)、徒頭、作事奉行
- 文久3年(1863年)、江戸北町奉行(4月16日 - 4月23日)、西丸留守居(4月23日 - 8月2日)、江戸南町奉行(8月2日)
- 元治元年(1864年)、外国奉行(6月29日)、御役御免・寄合(7月25日)
脚注
[編集]- ^ 日本歴史学会『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
参考文献
[編集]- 小川恭一『江戸の旗本事典』講談社、2003年。ISBN 4-06-273616-0。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 落語の舞台を歩く-落語「佐々木政談」の舞台を歩く-墓所の写真など。