土屋正方
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永6年(1709年) |
死没 | 明和5年5月19日(1768年7月3日) |
別名 | 熊次郎、民部、長三郎(通称) |
戒名 | 慈道 |
墓所 | 西久保大養寺 |
官位 | 従五位下・越前守 |
幕府 | 江戸幕府 小姓組番士、徒頭、目付、京都町奉行、江戸町奉行 |
主君 | 徳川吉宗 |
氏族 | 土屋氏 |
父母 | 父:土屋正克、母:不明 |
兄弟 | 土屋正勝、土屋正方 |
妻 |
先妻:筧正忠娘 後妻:山口直之娘 |
子 | 土屋正延 |
土屋 正方(つちや まさかた)は、江戸時代中期の旗本。土屋讃岐守家の第6代当主。
生涯
[編集]享保12年(1727年)10月9日、父の遺跡を継ぐ。享保16年(1731年)3月5日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の小姓組の番士として列し、元文4年(1739年)7月19日、徒頭となり、寛保元年(1741年)6月1日に目付となる。大猷院百回の法要や日光山御宮修造などに関係し、宝暦2年(1752年)2月9日に京都町奉行(東町奉行)に昇任し、4月15日に従五位下・越前守に叙任する。宝暦3年12月24日(1754年)、江戸町奉行(南町奉行)となる。明和3年(1766年)1月11日、武蔵国横見郡山野下村123石と地頭方村107石を加増され、千石取りの旗本となった。明和5年(1768年)60歳で没した。法名は慈道。
その他
[編集]- 江戸幕府の旗本の数について、俗に「旗本八万騎」と言われるが実際は約5000家余りで、そのうち土屋家のような千石取り以上の旗本は700家ほどであった。
知行所
[編集]- 相模国愛甲郡猿ヶ島村200石(現神奈川県厚木市)
- 下総国葛飾郡栗ヶ沢村104石(現千葉県松戸市)
- 下総国葛飾郡大谷口村236石(現千葉県松戸市)
- 下総国千葉郡中野村86石(現千葉県千葉市)
- 武蔵国横見郡地頭方村107石(現静岡県牧之原市)
- 常陸国鹿島郡武井村200石(現茨城県結城市)
- 武蔵国横見郡山野下村123石(現埼玉県比企郡吉見町)
年表
[編集]- 1709年 - 誕生
- 1727年 - 家督を相続
- 1731年 - 小姓組番士
- 1739年 - 徒頭
- 1741年 - 目付
- 1752年 - 京都町奉行(東町奉行)、従五位下越前守
- 1753年 - 江戸町奉行(南町奉行)
- 1766年 - 武蔵国横見郡山野下村三百石を加増され、千石取りの旗本となる。
- 1768年 - 死去
参考文献
[編集]- 松戸市史 史料編(一)〔大熊家文書〕
- 『寛政重修諸家譜』巻第五百五十一
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