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土屋正延

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土屋正延
時代 江戸時代中期
生誕 元文元年(1736年
死没 天明5年7月12日1785年8月16日
別名 左膳、左内、長三郎(通称
戒名 光徹
墓所 西久保大養寺
官位 従五位下伊予守
幕府 江戸幕府 小姓組番士、中奥番士、小十人頭、目付駿府町奉行京都町奉行長崎奉行
主君 徳川家重徳川家治
氏族 土屋氏
父母 父:土屋正方、母:筧正忠
兄弟 土屋正延向井政徳
赤井忠通養女(丹羽長道娘)
土屋正備細田時豊、娘(小田切直年妻)、向井政和
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土屋 正延(つちや まさのぶ)は、江戸時代中期の旗本。土屋讃岐守家の第7代当主。

生涯

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宝歴12年(1762年)4月15日、江戸幕府9代将軍・徳川家重小姓組として列する。以後、明和元年(1764年)閏12月9日に中奥番士、明和4年(1767年)閏9月28日に小十人頭に進み、明和5年(1768年)8月8日に父の遺跡を継いだ後、明和6年(1769年)2月12日には目付に転じた。

その後安永4年(1775年)7月1日には駿府町奉行安永7年(1778年)閏7月20日には京都町奉行(西町奉行)に就任し、同年9月15日に従五位下伊予守に叙任した。

天明4年(1784年)7月26日には長崎奉行に転じ、在任中の天明5年(1785年)7月12日、50歳で没した。法名は光徹。

妻は赤井五郎作忠通の養女であり、江戸幕府老中田沼意次の信任を得ていた。

知行所

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年表

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参考文献

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  • 奈良本辰也『日本の歴史17 町人の実力』中央公論社〈中公文庫〉、1974年6月。ISBN 4-12-200111-0 新版2005年12月
  • 松戸市史 史料編(一)〔大熊家文書〕
  • 寛政重修諸家譜』巻第五百五十一
先代
土屋正方
土屋家第7代当主
土屋正延
次代
土屋正備