朝比奈昌広
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朝比奈 昌広(あさひな まさひろ、文政10年(1827年) - 明治38年(1905年)8月21日)は、江戸時代の日本の武士・江戸幕府旗本。通称は八太郎、甲太郎。山城守、伊賀守と称した。号は閑水。旗本朝比奈昌寿の子。次女・くには渡辺廉吉の妻[1]。
生涯
[編集]世子時代の徳川家定の小姓となって将軍就任後もその地位にあり、亡くなるまで側近として仕えていた。文久3年(1863年)、歩兵頭となって上洛。元治元年(1864年)に長崎奉行、慶応元年1865年)に外国奉行を兼務。慶応2年(1866年)、長崎奉行は免じられるが、同年には柴田剛中と共にイタリア使節ヴィットリオ・アルミニョンと会見し日伊修好通商条約を締結している。また、勘定奉行に転身した。慶応3年(1867年)、再度外国奉行、外国惣奉行並、江戸町奉行並を歴任し、主に外国人日本居留者への対応を担った。慶応4年(1868年)1月には再び勘定奉行となるも間もなく免職し寄合となる。
墓所は東京都新宿区の全勝寺にある。法号:徳眼院殿閑水円悟大居士
官位官職履歴
[編集]※日付=旧暦
- 弘化3年(1846年)9月28日、小納戸となる。初めは八太郎を称し、在職中に甲太郎に改称。
- 嘉永2年(1849年)4月23日、将軍・徳川家慶付小姓に異動。在職中、従五位下・山城守に叙任。
- 嘉永6年(1853年)9月22日、世継ぎの徳川家定付小姓に異動。同年の家定征夷大将軍宣下の後も留任。
- 安政5年(1858年)7月11日、中奥小姓に異動。在職中、伊賀守に遷任。
- 文久2年(1862年)、家督相続。
- 文久3年(1863年)
- 元治元年(1864年)10月11日、長崎奉行に異動。
- 慶応元年(1865年)
- 慶応2年(1866年)
- 慶応3年(1867年)
- 慶応4年(1868年)
- 1月15日、勘定奉行(勝手方)に異動。
- 1月28日、勤仕並寄合となる。
※参考資料:大日本近世史料「柳営補任」
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 6版』(人事興信所、1921年)わ26頁