横田忠夫
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横田 忠夫(よこた ただお、1900年(明治33年)5月15日[1] - 1940年(昭和15年)10月3日[1])は、日本の社会運動家。
経歴
[編集]山形市出身[1]。少年期に母の実家の盛岡市に移る[2]。岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入るが、ストライキを指導したとして退学処分となる[2]。のち、石川金次郎の「牧民会」に入るが、退会する[2]。その後「下層民社」を設立する[2]。1927年(昭和2年)、労働農民党の岩手県支部の結成に参画する[1][2]。弾圧により同党が解散させられると、岩手無産党を組織し、書記長となり[2]、県内各地の争議を指導した[1][2]。1933年(昭和8年)、盛岡市議に当選する[1][3]。1940年(昭和15年)、検挙され、盛岡市内の警察で剃刀で首を切って自殺した[3]。
親族
[編集]- 父、横田豊蔵 - 米内村会議員[4]
- 弟、横田義重 - 盛岡市会議員
- 妻、横田チエ - 盛岡市議会議員、岩手県議会議員(日本社会党、岩手県では初の女性地方議員)[5]
- 息子、横田綾二 - 岩手県議会議員(日本共産党)
- 孫、高橋比奈子 - 綾二の娘、盛岡市議会議員、岩手県議会議員、自由民主党衆議院議員
- 曾孫、高橋康介 - 比奈子の息子、岩手県議会議員(自由民主党)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 岩手県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編著『岩手県姓氏家系歴史人物大辞典』角川書店、1998年。
- 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。