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樺山忠副

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樺山 忠副(かばやま ただそえ[1]天文6年4月15日1537年5月23日)- 弘治3年4月15日1557年5月13日))は戦国時代薩摩国島津氏の家臣。父は島津氏庶流樺山氏8代当主の樺山善久、母は島津忠良の次女・御隅(島津貴久の姉)。幼名は千代鍋丸、通称は太郎、助太郎。

樺山善久の嫡男として誕生、天文19年(1550年)に祖父・島津忠良の加冠により元服し、天文23年(1554年)には岩剣城の戦いに参加した。弘治3年(1557年)、蒲生氏菱刈氏との戦いにおいて(纒頭の戦い)、敵陣を攻め破る際に手負いとなり、同日その傷が元で死去した。享年21。法名は「華巌弓木上座」。島津義久が哀悼の和歌を詠んでいる。

   情有りてかたぢも人にことなるを さきだてて見るあなう世の中

   むかひては中々かなしそれとのみ 筆にとめおく人の名残りは

   あやなくも歎な詫そたらちねを おくらすたぐひこころ有世を

   峯の雲浦に塩やく煙にも 見し面影のたちやそふふらむ

   たかき名を残すはさすがうれしきも はかなやわきて武士の道

   吹風のさそひし花の陰ならて かかる夢をも見る世なりけり

此の歌は島津義久が樺山忠副が弘治三年の蒲生攻略の戦の際、菱刈重豊に斬られ重傷を負い国分・長濱の城にて亡くなったのを甚く悲しみ嘆きのあまり弥陀の六字(なむあみたふ)を歌頭にし詠んだ歌『三国名勝図会』より

母の御隅は忠副の死を機に出家し、朝夕怠らず供養の念仏を続けたという[1]

脚注

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  1. ^ a b 桐野作人 『さつま人国誌 戦国・近世編2』より

参考文献

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