橋本秀信
橋本 秀信(はしもと ひでのぶ、1895年(明治28年)1月13日[1][2] - 1991年(平成3年)8月19日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・三輪。
経歴
[編集]本籍愛媛県[1][2][3]。岐阜県で三輪伊左衛門の息子として生まれ、橋本広太郎の養嗣子となる[1]。宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる[1][4]。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し野砲兵第1連隊中隊長に就任[1][2][3]。高射砲第1連隊付、参謀本部付勤務、参謀本部員を経て、1930年(昭和5年)4月から1933年(昭和8年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した[5]。
1933年3月、参謀本部員(作戦課)、近衛師団参謀、陸大教官などを務め、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同年8月、北支那方面軍参謀となり、同年12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる[1][2]。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に進んだ[1][3]。同年7月、明野陸軍飛行学校教官に就任し、陸軍航空本部第3課長を経て、1940年(昭和15年)8月、第9飛行団長となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に昇進し太平洋戦争を迎えた[1][2][3]。
1942年(昭和17年)7月、第3航空軍参謀長(南方軍)に発令され南方要地の防空に従事[1][2][3]。以後、陸軍航空審査部本部長、陸軍航空総監部総務部長、兼航空本部総務部長を経て、第5航空軍参謀長を務め、1944年(昭和19年)6月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年10月、第9飛行師団長に転じパレンバンの防空に従事した[1][2][3]。1945年(昭和20年)7月、教導飛行師団長に転じ、栃木で終戦を迎えた[1][2][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
親族
[編集]- 義父 関谷守(妻の父、陸軍大佐)[1]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。