橘遠茂
橘 遠茂 (たちばな の とおもち、生年不詳-1180年)は、平安時代末期の武士、駿河国の目代。 平家方として駿河・遠江の軍勢を率いて反平家方の武田氏と戦い敗死する。現地の平家支持派壊滅は、富士川の合戦における平家敗北の要因ともなる。
経歴
[編集]「萩原氏系図」[1]によれば、藤原純友を討ち取った橘遠保の末裔とされる[2]。
治承4年(1180年)以前の経歴は不詳だが、後に遠茂の子・為茂が赦免され駿河国富士郡田所職を与えられているので富士郡がこの一族の本拠地であったと思われる[3]。
治承4年8月25日[4]、平家方の俣野景久(大葉景親の弟)と合流して反平家方の武田氏攻略のため甲斐国へ攻め込むが、「波志太山」(富士山の別名「八朶山」=富士山麓か[5])で武田一門の安田義定らと合戦になり敗走する(波志田山合戦)。
10月1日、甲斐源氏の襲来に備え、興津周辺に駿河・遠江の軍勢を集結させる。橘遠茂が興津で武田軍を迎撃しようとしたのは、同地が交通の要衝であることだけではなく、このあたりが遠茂の動員した武士団の東限であったためと考えられている[6]。
おそらく興津で平維盛を総大将とする追討軍の到着を待っていたと思われるが[5]、その追討軍の動きは鈍く、待ちかねた遠茂は長田入道[7]の進言を容れて13日に再度甲斐へ先制攻撃を加えるべく進発する。それを察知した武田勢は迎撃のため駿河に出兵し、翌14日に遠茂率いる駿河・遠江軍は鉢田辺(富士宮市北部朝霧高原付近か[5])で武田勢と遭遇して戦闘となる(鉢田の戦い)。遠茂は敗れて捕らえられるがすぐに処刑されたと思われ、長田入道とその息子2人らとともに梟首される。加藤光員によって討ち取られたともいわれる[8]。
駿河に到着した追討軍は現地平家支持派の壊滅を知る。現地勢力の支援を受けられない追討軍には動揺が広がり、これが富士川の合戦の敗因となる。富士川での平家敗北は東国の軍事・政治情勢を大きく変化させるもので、その要因となった波志田山合戦や鉢田の戦いの意義はより強調されてしかるべきとの意見もある[5]。
文治3年(1187年)12月10日、遠茂の子・為茂が「北条殿の計として」赦免され、駿河国富士郡田所職を給わる。
鎌倉時代、駿河・遠江の御家人の大半は現地の地頭に任じられず、伊豆・相模・武蔵など他国の武士が乗り込んでいる状況となるのは、両国の武士の多くは橘遠茂とともに没落したためと考えられている[6]。
系譜
[編集]「萩原氏系図」に基づく
「萩原氏系図」では遠茂の父・遠忠は「治承四年十月甲斐源氏争梟首」と記されており、長田入道と同一人物とみなしている。近世に記された駿河国の地誌『駿河国新風土記』にも橘遠茂の父親が長田入道という伝承が記録されている[10]。
脚注
[編集]- ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』「橘朝臣(五)小鹿島、萩原氏」(古代氏族研究会、1986年)収録
- ^ 現代でも橘遠保、またはその近親者の末裔の可能性を指摘する研究者もいる(下向井2011)
- ^ 『平安時代史事典』
- ^ 出典を記さない事項は『吾妻鏡』に基づく、以下同じ。
- ^ a b c d 杉橋1988
- ^ a b 高橋2005
- ^ この少し前、長田入道は藤原忠清に対して、源頼朝が挙兵する可能性があること報告しており(『吾妻鏡』同年8月9日条、『源平盛衰記』「八牧夜討事」)、平家に味方する地元(駿河国有度郡長田荘か)の有力な武士であったと推定される。また長田忠致と同一人物と見なす説もある(高橋2011、渡邊2024)
- ^ 『吾妻鏡』同年10月18日条
- ^ 『吾妻鏡』嘉禄元年12月21日条に登場
- ^ 「ここにみえたる長田入道といふ人此長田の庄の人と聞へたり、橘遠茂は其子にて氏は橘氏なり、今此村に藤蔵と云もの苗字を萩原といひ氏は橘氏にて、此村の産土神見瀬村の雷電権現の社の棟札に永享年萩原彦四郎橘某とありて旧家なり、もしくは此長田入道の子孫にや、其家に武田氏の古文書等もあれど系図伝わらざれば古きことは知れがたけれども長田の地名と橘氏なるによりてかくもあらんと思はるゝ也」(『修訂駿河国新風土記』有度郡二、西脇)
参考文献
[編集]- 杉橋隆夫「富士川合戦の前提-甲駿路「鉢田」合戦考-」(『立命館文學』509)1988年
- 『平安時代史事典』「橘遠茂(野口実)」角川書店、1994年
- 高橋典幸「鎌倉幕府と東海御家人―東国御家人論序説―」(『中世の伊豆・駿河・遠江―出土遺物が語る社会』高志書院)2005年
- 高橋昌明『清盛以前』平凡社 2011年(初出1984年)
- 下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』山川出版社 2011年
- 渡邊浩貴「源義朝権力の地域基盤と武士拠点 「義朝ガ一ノ郎等」鎌田正清と東海地域の場合」(『国立歴史民俗博物館研究報告』245)2024年