檀野礼助
表示
檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8年)8月9日[1][注 1] - 1940年(昭和15年)3月20日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・繁夫[3]。
経歴
[編集]長崎県彼杵郡矢上村(現長崎市)の旧佐賀藩郷士・檀野勝次、とう夫妻の長男として、高来郡諫早村の母の実家で生まれる[4][5]。現川小学校、長崎県尋常中学校、第五高等中学校を経て、1899年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した[5][6]。
大学卒業後、三井物産に入社し、シンガポール出張所長、バンコック出張所長、台北出張所長、若松出張所長を歴任[2][5]。1913年2月、北海道炭礦汽船に転じ、商務課長、売炭部長を務めた[2][5]。その後、南洋貿易 (株) を設立して社長に、また、東京海運 (株) を設立して常務取締役にそれぞれ就任[2][5]。
1920年3月、井上準之助日本銀行総裁の推薦で日魯漁業専務取締役に就任[2][5]。1926年、欧米に出張して鮭鱒缶詰の輸出の促進を図った[5]。その他、日本商事会社社長、後志製鉄社長、北海製罐倉庫社長などを務めた[2][5]。
1928年2月、第16回衆議院議員総選挙において北海道第四区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた[2]。
1940年3月、小石川区の自邸で胃潰瘍のため死去した[5]。
著作
[編集]- 『国際貿易論』〈商業叢書 第5編〉博文館、1902年。
- 述『日露の漁業と新条約』〈国際連盟協会叢書 第85輯〉国際連盟協会、1928年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 実際の生年月日は「明治8年12月7日」。満12歳以上が旧制中学入学の条件であったため、早く入学できるために村役場と相談して変更した。『檀野禮助傳 前篇』32頁。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 檀野禮助傳編纂委員会編『檀野禮助傳 前篇』露水組合事務所、1945年。
- 「檀野禮助氏の逝去を悼む」『北洋漁業』第1巻第1号、露領水産組合、1940年5月。