歌川国峰
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(歌川若菜から転送)
歌川 国峰(うたがわ くにみね、文久元年〈1861年〉 - 昭和18年〈1943年〉2月15日)とは、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。歌川国貞の孫。
来歴
[編集]二代目歌川国久の門人でその次男。母は国貞の二女・お勝(三女・お栄とも)。本姓は勝田、名は銀之助。歌川の画姓を称し国峰(国峯)、梅蝶楼と号す。明治年間に主に単行本の挿絵を手がけ、『当世書生気質』の挿絵をしたことで知られる。1892年に居宅を葛餅の船橋屋に譲って大阪へ移住し、一時期京都や大阪にいて大阪毎日新聞など新聞社の仕事をした。1897年1月、祖父3代豊国の三十三回忌を営む。1901年の第10回日本絵画協会展に「春野」という作品を出品、二等を受賞している。晩年は鎌倉に住み専ら肉筆画を描く。法名は豊山院彭壽國峯居士。享年83。
家族
[編集]- 母方祖父・歌川国貞(3代目歌川豊国)
- 父・歌川国久 (2代目) ‐ 国貞の娘婿
- 兄・歌川豊宣 ‐ 国久の長男。国貞の孫。
- 長女・歌川若菜(1889-) ‐ 日本画家、国貞の曾孫、城谷黙(小林秀雄の叔父)の妻。武村耕靄(こうあい、1852-1915、女性画家)、端館紫川、水野年方、川合玉堂らに学ぶ[1]。1904年女子美術学校日本画科卒。1908年第2回文展で「良人の室」で初入選、1910年ロンドンの日英博覧会に参加し、会場で浮世絵の実演をするなどして話題となる[2]。滞欧中個展を開催し、挿絵や注文画にも応じ、新聞報道もなされた[2]。1913年に米国に渡り、展覧会を開くなどし、ニューヨークでジャパンタイムズ編集局長の城谷黙と結婚[3]。1916年に帰国し、女性誌などに登場したが画業ではその後目立った活躍はない[2][4]。
- 親戚・歌川豊国 (4代目) ‐ 国久の相婿。国貞の娘婿。
作品
[編集]- 『夜討曽我狩場曙』挿絵 ※明治14年刊行。
- 『真土村冠松木』挿絵 ※明治15年刊行。
- 『本朝小西屋政談』挿絵口絵 ※明治17年刊行。
- 『当世書生気質』挿絵 ※坪内逍遥作、明治18年刊行。
- 『怪談牡丹灯籠』挿絵 ※三遊亭円朝作、明治18年刊行。
- 『絵本通俗名誉奇談』挿絵 ※木戸鉊之介編、文求堂版、明治21年刊行。
- 『雪竹伏水曙』口絵 ※宇田川文海作、明治26年刊行。駸々堂版。
- 「鶏の声」 木版 ※明治21年
- 「潮干狩図」 双幅、絹本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「歌川國峰」の落款、「國峯」の朱文方印あり(二幅いずれも同じ)
- 「弓矢持つ馬上の武士」 肉筆
- 「寒山拾得図」 絹本着色
- 「五節句図」 絹本着色
参考文献
[編集]- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
- 熊本県立美術館編 『今西コレクション名品展Ⅲ』 熊本県立美術館、1991年
- 山田奈々子 『木版口絵総覧』 文生書院、2005年
- 国際浮世絵学会編 『浮世絵大事典』 東京堂出版、2008年
脚注
[編集]- ^ 歌川国峰『明治大正文学美術人名辞書』松本竜之助 立川文明堂、1926
- ^ a b c 日本画家歌川若菜について―1910-11 年のイギリスでの活動を中心に林みちこ、『藝叢』筑波大学芸術学研究誌, 巻 39, p. 27-37, 発行年 2024-03-01
- ^ 長谷川進一(1966)『The Japan Times ものがたり』The Japan Times、p72
- ^ 歌川若菜 -歌川派直系の女性日本画家-ARTISTIAN