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正木信茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

正木 信茂(まさき のぶしげ、天文9年(1540年) - 永禄7年1月8日1564年2月20日))は、戦国時代武将里見氏の家臣。正木時茂の嫡男。平七、大太郎と称す。

生涯

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天文9年(1540年)、里見氏の家臣・正木時茂の嫡男として誕生。

永禄4年(1561年)頃、父時茂に代わって家督を継ぎ当主となる[1][2]。主君・里見義堯の娘・種姫を娶った。里見氏の北上政策の中心的存在として千葉氏原胤貞大須賀政常らと戦う。この頃から上総下総の里見軍の命令には信茂の名義で発給されているものが多く、また叔父である正木時忠が占領した大須賀氏領の小見川(現在の千葉県香取市)の返還に関して行われていた父・時茂と千葉胤富との交渉を引き継いだのも信茂であった。また、『海上年代記』において下総国匝瑳郡長谷(現在の千葉県匝瑳市)に城を築いた「正木大膳亮」も信茂のこととみられており、若年ながら既に里見軍の中心的な人物の一人であったと考えられる。

永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の際に戦死した[3][4]。享年25。

種姫

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信茂の死後、妻の種姫は出家して尼となり、夫の菩提を弔う余生を送った[5][6]

養老渓谷に近い上総朝生原(現在の市原市朝生原)に富士山宝林寺を建立したと伝えられ[5]、そのまま宝林寺で生涯を全うしたとも[6]、その後安房白浜(現在の南房総市白浜町下沢)の滝本山種林寺に住して晩年に宝林寺に移ったともいわれる[5]。朝生原の宝林寺に墓があり[6]、白浜の種林寺に「種姫の碑」がある[5]

この若くして山中に隠棲した種姫を、曲亭馬琴読本南総里見八犬伝』に登場する「伏姫」のモデルと唱える説がある[6]

脚注

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  1. ^ 滝川恒昭「正木時茂に関する一考察」(『勝浦市史研究』2号、1996年)
  2. ^ 里見氏ゆかりの慈恩院(館山市)に伝わる史料「正木一家法名」によれば、時茂は永禄4年4月に没したとされる。
  3. ^ 滝川恒昭「勝浦正木氏の基礎的考察―「正木武膳家譜」所収文書の紹介と検討を通じて―」(『勝浦市史研究』創刊号、1995年)
  4. ^ なお、信茂が死亡したとされる戦いはその前年(永禄6年)のとする説もあり、それが事実ならば生没年が1年ずつ繰り上がる事になる。
  5. ^ a b c d 種姫の碑”. まるごとeちば. 千葉県観光物産協会. 2016年9月10日閲覧。
  6. ^ a b c d 「宝林寺開闢450年祭」 ともし火を未来へ”. 里見氏大河ドラマ化実行委員会. 2016年9月10日閲覧。

参考文献

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  • 滝川恒昭「勝浦正木氏の基礎的考察―「正木武膳家譜」所収文書の紹介と検討を通じて―」(『勝浦市史研究』創刊号、1995年)
  • 滝川恒昭「正木時茂に関する一考察」(『勝浦市史研究』2号、1996年)
  • 千野原靖方『戦国房総人名辞典』(崙書房出版、2009年) ISBN 978-4-8455-1153-2