正木義太
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身(明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。
1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。1903年(明治36年)5月、「富士」分隊長に異動し、海兵航海術教官兼監事、「高砂」分隊長を経て、1904年(明治37年)1月、「高砂」砲術長に発令され日露戦争に出征。同年2月から3月にかけて旅順港閉塞作戦に第一回閉塞隊武揚丸、第二回閉塞隊米山丸指揮官として参加。同年4月、佐世保鎮守府付となり、海兵砲術教官兼監事に転じ、1905年(明治38年)8月、海軍少佐に昇進。
1906年(明治39年)1月から海軍大学校で選科学生として学び、同年4月、砲術練習所教官兼分隊長に着任。1907年(明治40年)9月、海軍教育本部員となり、さらに海軍砲術学校教官を兼ね、1909年(明治42年)10月、海軍中佐に進級。同年12月、「薩摩」砲術長に就任し、兼横須賀海軍工廠艤装員となり、造兵監督官(イギリス出張)、艦政本部艤装員兼造兵監督官、造兵監督官兼英国駐在、「金剛」副長兼艦政本部艤装員、造兵監督官を歴任。
1913年(大正2年)11月、海軍省出仕となり、横須賀鎮守府付、艦政本部員を経て、1914年(大正3年)9月、第2艦隊付兼重砲隊指揮官に発令され、第一次世界大戦に出征し青島の戦いに参戦。同年12月、海軍大佐に昇進し「橋立」艦長に就任。
1915年(大正4年)2月、海兵教頭兼監事長に就任。1917年(大正6年)12月、戦艦「河内」艦長に異動したが、1918年(大正7年)7月、「河内」は徳山湾で火薬庫の爆発事故により爆沈した。同年9月、呉鎮守府付となり、呉海兵団長兼「石見」艦長を経て、1920年(大正9年)12月、海軍少将に進級し呉鎮守府参謀長に就任。
1922年(大正11年)12月、舞鶴海軍工廠長に転じ、舞鶴要港部工作部長(舞鶴鎮守府の要港部への降格に伴うもの)を経て横須賀海軍工廠長となり、1924年(大正13年)12月、海軍中将に進んだ。1925年(大正14年)4月、軍令部出仕となり、同年7月に待命、そして12月予備役に編入された。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章[2]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[3]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[4]
- 1925年(大正14年)1月27日 - 勲二等瑞宝章[5]
親族
[編集]海軍大佐正木生虎は長男(海兵51期)、正木亮(刑法学者)は実弟。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 正木生虎『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年。ISBN 978-4-16-371670-1