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正覚寺 (愛知県扶桑町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
正覚寺

本堂
所在地 愛知県丹羽郡扶桑町斎藤県タ21
位置 北緯35度21分19.3秒 東経136度54分11.7秒 / 北緯35.355361度 東経136.903250度 / 35.355361; 136.903250座標: 北緯35度21分19.3秒 東経136度54分11.7秒 / 北緯35.355361度 東経136.903250度 / 35.355361; 136.903250
山号 医王山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 薬師如来
開山 友峰宗益
正式名 医王山正覚寺
文化財 十二神将像、大般若波羅密多経(町指定文化財)
法人番号 4180005009313 ウィキデータを編集
正覚寺 (愛知県扶桑町)の位置(愛知県内)
正覚寺 (愛知県扶桑町)
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北緯35度21分19.3秒 東経136度54分11.7秒 / 北緯35.355361度 東経136.903250度 / 35.355361; 136.903250

正覚寺(しょうかくじ)は、愛知県丹羽郡扶桑町にある臨済宗妙心寺派寺院

沿革

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創立は詳らかではないが、本尊の薬師如来像は742年天平14年)に聖武天皇の勅命により行基が自作したと古記録に伝わる[1]。かつては真言宗の巨刹であったが、度重なる火災により廃頽したことから、1509年永正6年)に臨済宗の友峰宗益が再興し、中興の開山とする。1584年天正12年)の小牧・長久手の戦いの際に伽藍をはじめ累世の宝器、文籍などが悉く焼失し、廃寺となり境内も狭められた。1959年昭和34年)2月に現在の本堂が再建された。現在は本堂の他に、庫裏と経堂が建ち、町指定文化財の円空仏がある[2]

尾北地方におけるキリシタン殉教地の1つでもある[3]

文化財

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  • 十二神将像(扶桑町指定有形文化財)[2] - 1974年(昭和49年)4月5日指定[4]。本尊薬師如来の両脇に、薬師如来を護る眷属として12体揃って安置されている。作者は円空で、寛文末から延宝初期(17世紀後半)の作と推定されている。12体全てが直径70cmほどの丸木を縦割りにした同木から作られており、円空の十二神将としては初期の作品である。大きさは63.4cmから76.5cmであり、額に干支が刻まれている。円空仏は愛知県岐阜県の各地にあるが、十二神将は数が少ない。近隣では江南市の音楽寺に11体残されている。
  • 大般若波羅密多経(扶桑町指定有形文化財)[2] - 1988年(昭和63年)1月25日指定[5]1782年天明2年)より1794年寛政6年)まで13年間の年月をかけて元竜泉寺和尚是孝が書き写したもの。所々の巻末に法名、援助者、費用等が記されている。和装折本、縦30cm、横50cm、高さ30cmの文庫式木箱一箱に50巻入、漆塗り桐箱12箱。

その他

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境内に地区の集会場が建っている。

脚注

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  1. ^ 『扶桑町史(下)』第四編 生活と文化 第二章 宗教
  2. ^ a b c 扶桑町/6.正覚寺の十二神将
  3. ^ キリシタン殉教史跡(愛知県北部・尾張地方) - カトリック名古屋教区
  4. ^ 『扶桑町史(下)』455頁
  5. ^ 『扶桑町史(下)』458頁


関連文献

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  • 青山玄「円空造仏の動機について」『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』第2巻、国際日本文化研究センター、1990年3月、69-78頁、doi:10.15055/00000938ISSN 0915-0900 
  • 小島梯次「扶桑町・正覚寺及び江南市・音楽寺の円空作十二神将」『愛知県史研究』第15巻、愛知県、2011年3月、119-126頁、doi:10.24484/sitereports.116823-29314 

参考資料

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  • 1608年慶長13年)の検地帳には、「丹羽郡前刀村正覚寺御縄除九畝歩」と記されている。
  • 1692年元禄5年)奉納の鰐口の銘に「丹羽郡斎藤村医王山正覚寺、元禄甲戌際四月吉祥日、奉掛御宝前総檀越村中」とある。
  • 戦時中供出した梵鐘の銘に「尾州丹羽郡稲木荘斎藤邑、医王山正覚寺、天明八年戌甲二月再建立」とあった。