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武村忠雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武村 忠雄
人物情報
生誕 1905年10月10日
日本の旗 日本 東京市麹町
死没 1987年12月14日(82歳没)
日本の旗 日本
学問
研究分野 マルクス経済学
研究機関 慶應義塾大学
指導教員 加田哲二
称号 慶應義塾大学教授
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武村 忠雄(たけむら ただお、1905年10月10日 - 1987年12月14日)は[1][2]日本経済学者。専門は景気予測や経済分析、マルクス理論。慶應義塾大学教授。旧姓氏名は奥田忠雄

経歴

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1905年に東京麹町に生まれる[1]1928年慶應義塾大学経済学部を卒業、同大学助手となる[1]加田哲二ゼミナールに所属し、オーストリア派マルクス主義者マックス・アドラー (マルクス主義者)英語版をテーマに卒業論文を執筆した[1]

1929年から陸軍で10ヶ月の兵役を行い、1931年から予備役陸軍主計少尉に就任、予科講師を兼ねた[1]1933年から1935年までミュンヘン大学に留学し、アドルフ・ヴェーバー (経済学者)英語版ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのゼミナールで学び、オスカー・モルゲンシュテルンから個人指導を受ける[3]。帰国後の1935年助教授1937年教授となる[3]

小泉信三が塾長となったことから、小泉から経済原論の講義を引き継ぐが、講義内容はマルクス経済学であった[3]。当時マルクス主義を弾圧していた政府から強い圧力を受けた[3]。武村によれば、小泉は文部省からの武村の出頭命令を拒否し、代わりに自ら出頭して武村は「すでにマルクス主義を脱却している」と説明した。その後小泉は内容がマルクス経済学である『統制経済と景気変動』を絶版にすることと、総合雑誌への寄稿をやめることを武村に求め、書籍の絶版については従った[3]。敗戦後に各大学で教員適格審査が行われた結果、1946年に教職を追放される[1]1951年に再審査で適格と判定され、1953年講師として復帰した[1]

著書

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  • 『マルクス恐慌理論』(春秋社, 1932年)
  • 『統制経済と景気変動:資本主義構造変化論』(有斐閣, 1938年)
  • 『戦争と経済』(慶応出版社, 1940年)
  • 『戦争経済入門』(慶応出版社, 1943年)
  • 「維納通信(1934年8月31日附書簡)」『三田評論』446号(慶応出版社, 1934年)

出典

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  1. ^ a b c d e f g Bibliographic Database of Keio Economists 武村忠雄 慶應義塾経済学部・慶應義塾経済学会、2023年7月16日閲覧.
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武村忠雄」の解説”. コトバンク. 2023年7月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e 牧野, 邦昭 (2022).「戦争と経済学者 : 武村忠雄についての覚書」『三田学会雑誌』114巻4号: 437-455頁.