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暴力革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武装革命から転送)

暴力革命(ぼうりょくかくめい)とは、武装蜂起(武装闘争)内戦を起こすなど暴力や武力を使用した革命[1]。また、革命は、国家権力を暴力で粉砕し奪取することにより達成されるとする考え方(暴力革命論)のこと[1]

対比語は平和革命[1]無血革命など。

概要

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歴史的に多くの革命は武力や暴力・戦争などを伴った。著名な例には以下がある。清教徒革命(1642-49年)、アメリカ独立戦争(1775-83年)、フランス革命(1789-95年)、ロシア革命(1905/1917年)、辛亥革命(1911年)、ドイツ革命(1918–19)、トルコ革命(1920-23年)などがある[要出典]

バブーフブオナローティによる陰謀事件ブランキ秘密結社の武装蜂起などは暴力革命論の先駆けであった[1]マルクスエンゲルスは暴力革命論をとり、暴力を新たな社会の生誕を助けるものと考え,暴力による国家解体が新たな生産力水準と生産者の権利の確保につながると主張した[1]ウラジーミル・レーニンも暴力革命不可避論をとり、ボリシェビキによるロシア革命で暴力革命を実行した[1]

ソ連崩壊につながる1989年東欧革命は、ルーマニアアルバニアを除き、平和的な革命として達成された[1]

マルクスとエンゲルス

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1848年、マルクスエンゲルス共産党宣言で、民主主義政党と協力するが、革命には暴力的転覆(暴力革命)が必要と記載した[2]

最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアはこの革命によって鉄鎖の他に失う何ものもない。彼らの得るものは全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ! —  共産党宣言

マルクスは『資本論』(1867年)で「暴力は、旧社会が新たな社会をはらんだ時の助産婦である。暴力それ自体が一つの経済的な力である」と述べる[注 1][4]。エンゲルスは「反デューリング論」でこれを援用して、実力こそ革命的方法の革命的方法たる所以であるといい[5]、レーニンも引用している[4]

マルクスは1872年第一インターナショナルでの「ハーグ大会についての演説」では、国や状況によっては平和革命の可能性があるが、大多数の国々では強力(暴力)が必要と主張した。

新しい労働の組織をうちたてるためには、労働者はやがては政治権力をにぎらなければならないが、われわれは、この目標に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない。「われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そしてもしわれわれがあなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に強力にうったえるほかはないのである。[6]

マルクスの死後、エンゲルスは1895年に「フランスにおける階級闘争 序文」で、普通選挙による合法的な闘争方法を評価した。

普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、プロレタリアートのまったく新しい一闘争方法がもちいられはじめ、その方法は急速に発達をした。(中略)ブルジョアジーと政府は、労働者党の非合法活動よりも合法活動をはるかにおそれ、反乱の結果よりも選挙の結果をはるかに多くおそれる、というようになった。そのわけは、この点でも、闘争の条件が、根本的にかわってしまっていたからである。あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。[7]

レーニン

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ウラジーミル・レーニン1902年の『なにをなすべきか?』で、平和革命を認める修正主義を「日和見主義的な経済主義」と批判した。更に1917年の『国家と革命』で、プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能と述べた(暴力革命不可避論)。

一 階級対立の非和解性の産物としての国家
被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能なばかりでなく、さらに、支配階級によってつくりだされ、この「疎外」を体現している国家権力機関を破壊することなしには不可能である

四 国家の「死滅」と暴力革命
ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と交替するのは、「死滅」によっては不可能であり、それは、通例、暴力革命によってのみ可能である(略)プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。 — ウラジーミル・レーニン国家と革命』第1章[8]

日本

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日本共産党

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日本共産党は1950年に所感派国際派に内部分裂したが、両派の暴力革命に関する主張には以下の変遷がある。

第二次世界大戦の敗戦後、主流派(後の所感派)は「米軍解放軍規定・平和革命論」を主張した。しかし 、同年6月に金日成に依頼されて朝鮮戦争開戦した際に韓国陥落させる上で、日本共産党のこの路線が邪魔になると判断したヨシフ・スターリンの意向に沿って、各国共産党の情報交換組織である共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)『Communist Information Bureau』は日本共産党批判を行った。所感派はこれに反論したが、日本共産党の友好組織である中国共産党の人民日報による批判を受けると主張の転換を行い[9][10][11][12]、ソ連・中共の指示の下で翌1951年2月に第4回全国協議会を開催して軍事方針を含む行動指針(51年綱領)を採択し、日本国内で武力闘争・暴力革命路線を実施した[10][11][12]

非主流派の国際派は当初は上部組織・国際共産主義運動による「所感派の唱えた米軍解放軍規定・平和革命論」批判に迎合することで、日本における暴力革命を実質支持していたが、徐々に党内主流派である所感派からの左遷・除名処分を受け、所感派の1951年綱領採択後の1951年にはコミンフォルム・中ソ共産党から所感派こそが正統と認められ、国際派は分派認定された[10][11][12]

しかし、日本共産党は世論の支持を失い、1952年の衆議院選挙で議員全員が落選する事態を招くと、国際派は所感派への所業を自己批判して1954年に復党が次第に認められ、更に1956年の第6回全国協議会(六全協)で所感派・国際派双方が党要職を占める和合体制となり、武装闘争路線の放棄を決議した。日本共産党は以後、「所感派に全責任ある、党には責任が無い」とし、「平和革命必然論(平和革命論)」と「武力革命唯一論(1951年綱領)」の両方を誤りとし、敵の出方論をとることなった[11][12]。平和革命論の否定と、敵の出方論をとっている事から、日本政府・公安調査庁は日本共産党が暴力革命を放棄していない(敵の出方論)として、破壊活動防止法に基づく調査対象団体とし続けており、日本共産党はこれを批判している。

日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。 — 『日本共産党の当面の要求』(1951年綱領)[13]
党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手をきる決意をあきらかにした。党は今日の日本には、まだ切迫した革命的情勢のないことを確認し(略)革命を安易に考え、革命をせっかちな方法でなしとげようと考えるのは、小ブルジョア的なあせりである。 — 『日本共産党第六回全国協議会決議』(1955年)[14]

新左翼

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1950年代末期から1960年代前半にかけて路線転換した日本共産党を既成左翼と批判した新左翼は、暴力革命による社会主義革命を主張し、学園闘争安保闘争成田空港闘争などで急進的な武装闘争を行った。特に共産主義者同盟赤軍派前段階武装蜂起論を主張して大菩薩峠事件など、連合赤軍人民戦争理論の影響を受けてあさま山荘事件など、日本赤軍国際根拠地論を主張して日本赤軍事件を発生させた。また1970年代に東アジア反日武装戦線反日亡国論アイヌ革命論などを主張して連続企業爆破事件を発生させた。2000年以降はゲリラ闘争は減少したが、以後も多くの党派は暴力革命を肯定している[15]が、以下のようにその内容には幅がある。

革共同系

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革命的共産主義者同盟(革共同)系党派の主張には以下がある。

プロレタリア革命は暴力革命であり、プロレタリア独裁の樹立こそ革命の核心問題である — 革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)2009年綱領草案[16]
革命とは暴力革命でなければならないし、一斉武装蜂起です。 — 革命的共産主義者同盟再建協議会(中核派関西派、2008年)[17]
私たちは「暴力革命」という立場をいまも堅持しています。「暴力革命」の本質は、「暴力で革命を行う」ということではありません。「革命をめざす大衆的闘いを押しつぶそうとする権力の暴力装置である軍隊や警察を政治的に解体し、労働者人民の側に獲得すること」です。 — 日本革命的共産主義者同盟 (JRCL) 私たちは革命とその目的をどのように考えているか(2003年)[18]

共産同系

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共産主義者同盟(共産同、ブント)系党派の主張には以下がある。

ブルジョア国家権力の打倒から始まるプロレタリア革命は、暴力革命によってしかなしえない。日本における革命は議会における多数派形成によっても、また農村や山岳地帯を拠点とする解放区型革命によっても勝利しない。プロレタリアートの武装蜂起を国家権力打倒の戦術の中心にすえるべきである。日本のプロレタリアートは武装蜂起の勝利を可能にする革命党を建設しなければならない。 —  共産主義者同盟 (統一委員会) 綱領(2004年採択、2018年改訂)[19]

解放派系

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社青同解放派(革労協)系党派の主張には以下がある。

プロレタリアートは、本質的に非合法的存在であり、あらゆる革命は、本質的に暴力的である。これを確認するものだけが共産主義者である。形態としての革命は、より平和的合法的なものから、より暴力的反乱的なものまで、種々の段階をなして存在する。 —  滝口弘人 共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還する為の闘争宣言(草案)1961年[20](解放派の綱領的文書)
プロレタリア暴力革命の最先端の任務を共に担いぬこう! — 革命的労働者協会(解放派)(革労協・赤砦社派、2012年)[21]

批判

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ロシア社会革命党員としてロシア革命で活躍した社会学者ピティリム・ソローキンは、レーニンに反対したため弾圧され、1922年にアメリカに亡命したが、その体験から暴力革命やソ連の共産主義には否定的であり、ナチズムと同一水準に論じて批判した[22][23]

社会主義者で哲学者のバートランド・ラッセルは、ボルシェヴィキのように、投票で表明された多数尊重の原則を放棄し、暴力的な権力奪取を認めてしまうことは、の放棄であり、文明が抑制している原始的欲情と利己主義を野放しにすることになるとして、暴力革命に反対する[24]。ラッセルによれば、人類は法の遵守という考えが可能になるために何世紀もの努力を要したが、殺人、強姦、暴力による強盗が普通であるような無法の暴力状態においては、我々が生活するうえで予期している様々な良いことの多くが消滅する。文明はもともと不安定で、解体させることもできるが、文明国は、内戦に代わるものとして、争いを暴力に頼らずに解決する方法として、民主的政府を承認した[24]。だが、ボルシェヴィストは、暴力を避けるどころか、暴力それ自体を喜ばしいものとみなしており、恩恵を与えることより敵を傷つけることに熱心な人からは、善は期待できないとラッセルは批判した[25]

経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、暴力革命だけでなく、あらゆる暴力的な社会変革に反対した[26]

法学者ハンス・ケルゼンも暴力革命を批判し、ボルシェヴィズムにおいては、民主制は厳しく否定され、ソヴェト体制は貴族政体であるとケルゼンはいう[27]

脚注

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注釈

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  1. ^ 第1巻第7篇第24章第6節 「産業資本家の生成」。ドイツ語:Das Kaptital,Band I,SIEBENTER ABSCHNITT,VIERUNDZWANZIGSTES KAPITEL,6.;Die Gewalt ist der Geburtshelfer jeder alten Gesellschaft, die mit einer neuen schwanger geht. Sie selbst ist eine ökonomische Potenz.英訳:Force is the midwife of every old society pregnant with a new one. It is itself an economic power.Capital,Vol.1,Part VIII,Ch. 31. ドイツ語のPotenzは、力、活力、男性の性的能力などの意味である[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 日本国語大辞典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版. “暴力革命とは”. コトバンク. 2023年4月6日閲覧。
  2. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “共産党宣言とは”. コトバンク. 2022年1月20日閲覧。
  3. ^ ポテンツ』 - コトバンク
  4. ^ a b ケルゼン 1976, p. 51.
  5. ^ 「反デューリング論」XX-190
  6. ^ 「ハーグ大会についての演説」1872年9月 マルクス・エンゲルス全集(18) 158ページ、不破哲三『科学的社会主義における民主主義の探求』40ページ
  7. ^ エンゲルス「フランスにおける階級闘争 序文」、マルクス『フランスにおける階級闘争』所収、大月書店 国民文庫18ページ
  8. ^ 『国家と革命』 - レーニンアーカイブ
  9. ^ 神山茂夫『日本共産党とは何であるか』自由国民社、p140-143
  10. ^ a b c 大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
  11. ^ a b c d 『日本共産党綱領一部改定についての提案』(1994年)日本共産党
  12. ^ a b c d 【佐藤優の地球を斬る】真実に口を拭う共産党は信用できぬ”. SankeiBiz(サンケイビズ). 2021年9月10日閲覧。
  13. ^ 『日本共産党の当面の要求」(1951年綱領)』
  14. ^ 『日本共産党第六回全国協議会決議』(1955年)
  15. ^ 令和元年版(2019年)警察白書 第6章第2説第2項「暴力革命による共産主義社会の実現を目指す極左暴力集団は、依然として「テロ、ゲリラ」の実行部隊である非公然組織を擁するとともに、組織の維持・拡大をもくろみ、暴力性・党派性を隠して大衆運動や労働運動に取り組んでいる。」
  16. ^ 2009年綱領草案 - 革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)
  17. ^ 『革共同通信・創刊準備号』(2008年)
  18. ^ 私たちは革命とその目的をどのように考えているか(2003年) - 日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)
  19. ^ 共産主義者同盟 (統一委員会) 綱領
  20. ^ 共産主義=革命的マルクス主義の旗を 奪還する為の闘争宣言(草案)滝口弘人 1961年5月
  21. ^ 解放 1031号5面
  22. ^ 木村雅文「T.パーソンズとソヴェト社会論」大阪商業大学論集 / 大阪商業大学商経学会 編 6 (2), 19-33, 2010-07
  23. ^ P.Sorokin, Was Lenin a Failure? A Debate:I-Lenin,the Destroyer,Forum, April 1924, vol.LXXI,No.4. Roger W. Smith
  24. ^ a b ラッセル 1990, p. 97-99.
  25. ^ ラッセル 1990, p. 22.
  26. ^ ドスタレール 2007, p. 219.
  27. ^ ケルゼン 1976, p. 149.


参考文献

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関連項目

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