殷体新
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殷体新 | |
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『冀東』東亜人文研究所(1937年) | |
プロフィール | |
出生: | 1901年または1902年[1] |
死去: |
1939年(民国28年)3月23日 満洲国吉林省敦化県黄泥河 |
出身地: | 清浙江省温州府平陽県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 殷體新 |
簡体字: | 殷体新 |
拼音: | Yīn Tǐxīn |
ラテン字: | Yin T'i-hsin |
和名表記: | いん たいしん |
発音転記: | イン ティーシン |
殷 体新(いん たいしん、1901年または1902年 – 1939年3月23日)は中華民国の政治家。冀東防共自治政府に参与した人物で、政務長官・殷汝耕の甥[2]である。
事績
[編集]1935年(民国24年)11月24日、冀東防共自治委員会が成立した。この際に殷体新は、委員長・殷汝耕の下にある8委員の1人となった[4]。翌月に冀東防共自治政府へ改組されると、殷体新は参政[5]の地位に移る。1936年(民国25年)4月に秘書長兼外交処長・池宗墨が満洲国との修好使節として新京に向かった際には、殷体新も同行している[6]。
同年夏、自治政府実業庁が建設庁から分離されると、殷体新が実業庁長に任命された[7]。翌1937年(民国26年)3月15日、名古屋汎太平洋平和博覧会出席のため来日している[8]。なお、同年7月29日の通州事件における殷体新の動向や、中華民国臨時政府との関わりについては不詳である。
1939年(民国28年)3月23日、天津から離陸した中華航空ロッキード機に乗客として殷体新は搭乗していた。しかし、同機は満洲国吉林省敦化県黄泥河に墜落し、殷は他の乗客乗員と共に死亡した[9]。享年38または39。
注
[編集]- ^ 神田・東洋事情研究会(1937)、48頁における「年歳三十六」との記述から、数え年で逆算すると1902年生まれとなる。長野編(1940)、227頁における「享年三十九歳」との記述について同様にすると、1901年生まれとなる。
- ^ 高木(1937)、139頁及び長野編(1940)、227頁。『同盟旬報』3巻9号通号64号、同盟通信社、23-24頁は「実弟」としているが、誤り。
- ^ 長野編(1940)、227頁
- ^ 高木(1937)、20-24頁。殷体新以外の残る7人の委員は、池宗墨・王厦材・張慶余・張硯田・李海天・趙雷・李允聲。
- ^ 「政務長官の政務執行に参賛」する地位で、8人を置くものとした(「冀東防共自治政府組織大綱」第3条)。
- ^ 『外交時報』78巻3号通号754号、1936年5月1日号、外交時報社、192頁。
- ^ 高木(1937)、139頁。
- ^ 東亜人文研究所編(1937)、1-2頁。
- ^ 『同盟旬報』3巻9号通号64号、同盟通信社、23-24頁。『満航』6巻4号通号63号、1939年4月号、満洲航空、32-33頁。
参考文献
[編集]- 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。
- 神田隆介著・東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。
- 長野朗編『支那事典』建設社、1940年。
- 東亜人文研究所編『冀東』東亜人文研究所、1937年。