比志島義興
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 慶長4年(1599年)6月 |
改名 | 千代三郎丸(幼名)→義武→義興 |
別名 | 通称:彦太郎 |
官位 | 左馬介 |
主君 | 島津義久 |
氏族 | 称・清和源氏義広流志田氏系比志島氏(実際は大蔵氏) |
父母 | 父:比志島義基、母:比志島国守娘 |
兄弟 | 義興、北原兼茂 |
妻 | 島津芳忠娘 |
子 | 義元 |
比志島 義興(ひしじま よしおき)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。
生涯
[編集]天正3年(1575年)12月14日に元服を果たすと、天正6年(1578年)の耳川の戦いには父と共に参戦して功を為した。天正8年(1580年)の肥後国矢崎城攻めや天正10年(1582年)の水俣城攻め、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでも軍功を為す。天正14年(1586年)6月の筑紫広門征伐では大将を務め、根白坂の戦いの際も父と共に功を上げた。
その後は文禄・慶長の役にも参加したが、慶長4年(1599年)に実弟・北原兼茂と叔父・比志島国家と共に上洛した際、程なくして伏見にて病死した。享年39。父・義基に先立つこと4年であった。
出典
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)