毛利親衡
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 南朝:文中4年、天授元年/北朝:応安8年、永和元年(1375年)8月[1][2] |
改名 | 親茂(初名)[1][2]→親衡→宝乗(法名)[1][2] |
別名 | 孫太郎(通称)[1][2] |
戒名 | 宝乗大禅定門[1] |
墓所 | 広島県安芸高田市吉田町[1] |
官位 | 従五位下[1][2]、陸奥守[1][2]、備中守[1][2] |
主君 | 南朝→北朝→足利直義 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 父:毛利貞親 |
兄弟 | 親衡、妙玄[3]、親秀[3]、泰秋[1] |
妻 | 長井三田入道の娘[1][2] |
子 | 元春[4][2]、坂匡時[4][2]、直衡[4]または直元[2](有冨氏祖[2]) |
毛利 親衡(もうり ちかひら)は、南北朝時代の武将。安芸国吉田荘地頭職[4][2]。
生涯
[編集]南北朝の戦乱が勃発すると、父の貞親とともに南朝方として越後で活動した。しかし、後に祖父の時親の取り成しで北朝方に帰順し[5]、一族とともに安芸に下向した。毛利氏の総領は祖父の死後、子の元春が継いでいたため[6]、親衡は日下津城を築いて別家を起こし、子孫は坂氏を名乗り、安芸毛利氏の有力支族(庶家)の一つとなった。
武勇に優れ、かつ反骨心に富む人物であったようで、南朝:正平5年/北朝:貞和6年、観応元年(1350年)に勃発した観応の擾乱の際には反幕府方として活動し、周防の大内氏と同盟して九州に出陣した子の元春の留守を攻撃し[7]、また、日下津城に攻め寄せた安芸守護・武田氏信の軍勢を籠城の末撃退する[8]技量を見せている。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション